おれの徒然〈16〉「滝への長い小径」篇


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 きのう、大滝詠一のラジオ動画を流しながら、『大滝詠一レコーディング・ダイアリーvol.1』を読んでいた。ふいにおもいたって配信番組のための追加録音をした。番組OP、タイトル・コール、前説用の音楽、エンディング用にベースを録音した。なかなかうまくいったとおもうが、ディレクターの三浦果実氏が採用するかはわからない。

 きょうで20日だ。24日には工賃が入る。食糧はぎりぎり。セルフ兵糧攻めだ。月の終わりはいつも経済封鎖に遭っているありさま、為体。望みはあまり見えない。来月の行動計画、そして出費については予想がすでに終わっている。あたらしくなにかが必要であるというわけじゃない。

 表現活動は停滞している。一昨日から音感トレーニング・アプリを験しているが、なかなか9級から8級へいけないでいる。きょうはずっと受け身な、なにかでしかない。はじめてシュガーベイブを聴いた。今更ながらである。

 ずっとずっと現実と理想のあいだを喘いでいる。空想癖がおれにありもしない成功を見せてくれる。しかしどんな好い立場になったとしても、おれは惨めままでいるだろう。サルトルは「実存は本質に先立つ」といっていて、それとどう繋がるのかがわからないが、おれの場合は作品があってのおれであって、おれあっての作品ではないとおもっている。ウォーホルがいったように「ぼくを知りたければ作品を見てくれ、ぼくのうしろにはなにもない」ということだ。おれが表現を撰んだというのもまちがってる。表現がおれを撰んだんだ。おれ自身はとくに見所もない、田舎の落ちこぼれでしかない。

 なんだか、よくわからない。じぶんの考えがじぶんでわからない。希死念慮はずっとおれに貼りついている。それが本気か、冗談かもわからない。ただただ死という概念と戯れているだけかも知れない。独居老人の孤独死という未来しか予見できないなかで、自裁という発想はある種の救いのようにある。室を事故物件にせず、どっか──たぶん森のなかの休憩所あたりで──死ねる可能性を模索している。あらかじめ一筆送って、死体の発見を早めることも忘れずにだ。

 まあ、こんなことを書けばまたサツに通報されるかも知れないから、此処までにしよう。追加音源集のZIPをドライヴにあげた。以下のリンクから入手できる。ともかく、だれかに聴いて欲しい。ただそれだけがきょうのおれの願いだから。

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