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がらくた

6月も半ばに差しかかるいま、僕は無職である。


3月末に東京で桜が満開を迎えたあと、雪が積もる日があった。
そのときは、まだ僕はコロナ禍が巻き起こす事態を軽視していて、「会社は、なんだかんだ言いながらも持ちこたえてくれるだろう」なんて思っていた。
もちろん所属している会社からも「夏まではなんとかやっていけるから、売上が悪くてもそんなに落ち込まなくていいぞ……」と、勇気づけられていたし。

僕は、とある会社が出資するBARの運営を任されていた。


4月になって突如風向きが変わった。度重なる報道もあって、来客数が激減したのだ。
ロスを出さないため、僕はメニューを絞って営業することにした。
なにせ業態がBARである。雇っていたアルバイトを全員休みにして守りに入り、そこからは一人っきりで営業しようと腹を括ったのだ。
名指しで営業自粛を求められ、お店を開けることが後ろめたくなったのは事実だけれど、それでもまだ4月初めはお店存続のために悪あがきを続け、そんなお店を心配してか常連の方が日々何名かずつ来店してくれた。

その数日後、コロナ感染症対策として政府は緊急事態宣言を全都道府県に発出した。覚悟はしていた。
社長からすぐに連絡が入り、「当面の間お店は休業するように。まあしばらくは家でゆっくりしていてよ……」と告げられた。
ニュース番組では、WHO(世界保健機関)が口を濁している様子を映しだしていたけれど、それは紛れもなくパンデミックだった。
でもそのときはまだ、不謹慎だけれど突然の休みが降って湧いたことに歓喜していた。何故なら店舗営業以外にも、自宅でしかできないwebページの管理や更新作業が山ほど溜まっていたのだ。


水……木……そして金曜日の夕方、緊急事態宣言後の店舗運営について相談があると社長に言われ、僕は店に呼び出された。
店に到着すると、すでに社長はテーブルに座っていて、そしてそのテーブルの上には一枚の解雇通知書が置かれていた。

ショックだった。「大丈夫だ」と言われていただけに、突然すぎる現実に眩暈がした。でも、いますぐに賃貸借契約で違約金を発生させずに手放せるのはこの店舗しかないという理由と、それは会社本体を存続させる数少ない方法のひとつと言われれば、もはや納得するしかなかったのだ。
会社本体はホテル業だ。すでに大変な状況下にあるなか、賃貸借契約の縛りによってそう簡単にはやめられない。まだまだ先の見えない状況で、少しでも負担を減らしたい会社の決断は、小さな店舗だけれど一切の経営権を任されていた僕にとって痛いほどわかる現実だったのだ。

僕は「13日をもって……」という解雇通知書に迷わずサインをした。


閉店止むなし。正直驚いたけれどもそれは仕方がないこと。
その後、雑談のなかで本社の大変な話などをしてくれたけれど、完全にうわの空だった。そう、そのとき僕は全く別のことを考えていたのだ。

ちょっとの間をおいて、僕は社長に切りだしてみた。
「僕が事業を継続するわけにいかないでしょうか?」

いまなら僅かながら蓄えがあるし、この設備をそのまま使う”居抜き”として事業を継続することなら可能だと算段していたのだ。

社長は賛成してくれた。
できれば会社名にしている店舗の名前をそのまま引き継いで欲しいとまで言われた。当然である。僕自身も、この店を始めて7年目であり思い入れは相当だ。
こんなことで負けちゃいられない。
現状すぐに再開は難しけれど、6月、遅くても7月くらいまでに営業再開できるのでは?とその時は踏んでいた。

そこから大家さんとの交渉が始まる。
大家さんは、自分で店内の設計を依頼して、調度品、備品まで自前で揃えたお金持ちであり、元々は自分の美的感覚にあったお店を運営してくれる人物を求めていた人だ。その思いに応えるべく僕は何年間もお店を運営してきたわけで、簡単に言えば大家さんと気持ちが通じていると思っていたのだ。
ただ、それは安易な考えだった。

交渉は難航した。OKサインがでないのだ。
二度、三度と大家さんにアポイントを取り、交渉の機会を与えてもらう。
ただ、最後に言われる答えは毎回「考えとくよ……」ばかりだ。
4月中はそれでもまだ余裕があった。一度閉店ということで、店内清掃など肉体労働に没頭できたからだ。4月はそんなこんなで瞬く間に過ぎていった。


翌月の6日、政府から緊急事態宣言が解除される地域が発表された。
その翌日から「仕事行くのめんどくさい」とか「電車が混んでる」などのツイートが散見するようになった。

僕は、落ち込んだ。
周囲は大変だと言いながらも日常に戻って楽しそうにしてるじゃないか……と。張りつめていた気持ちがグラっときてしまったのだ。「仕事やだー」というツイートを見るたび、僕の目の前はどんどんと暗くなっていった。

これは、会社を解雇になった人にしかわからない気持ちだけれど、毎日やることがないという社会からの疎外感は尋常じゃない。理不尽な解雇(とは言え理由が理由なだけに文句は言えない)であれば余計にそう思ってしまうもの。
自分の生活空間だけ時間が止まってしまったという紛れもない事実。
何もない時間だけが音もなく過ぎてゆく。
休みが楽しいのは仕事があるからであって、何もない状態の空気は薄い。
「また月曜がやってくるよ、サイアクだー」「混雑した電車なんか絶対乗りたくないー」など、僕にとってそれは楽しい会話にしか聞こえない。曜日はなくなり、朝も夜もなく、ただ終わりのない時間だけがそこに横たわる。
自分は社会の何の役にも立っていない。存在価値がない……どんどんと自分が透明になっていく。

せっかく事業継続しようと思っていた気持ちが徐々に、徐々に薄れていった。
それでもまだ、全く使っていない店の電話契約にお金を払い続けているという自負があり、その細い糸が弱り切った心をかろうじて繋いでいてくれた。そんな消え入りそうな気持を生きる糧として、もはや色のない日々を僕は漂っていた。

5月も後半になると全国的に自粛が解除された。
噓か本当か、ワイドショーで取材を受ける飲食店が賑やかに見える。そんな映像を眺めながら、完全に社会から取り残された自分……というやるせなさで、本当に頭がおかしくなりそうだった。
程なくして会社から離職票が届き、ハローワークの手続きを完了させる。
とにかく就職活動を行わないと、このままでは本当に収入がないまま自分は消えかねない。
毎日何気なく、そして面白おかしくTwitterをしていたけれど、その裏側で僕は途方に暮れる毎日に怯え、スマホを持つ手は常に震えていた。


失職した最初の頃は、事業主になったらあれをやろう、こうしてみよう……など妄想が楽しい時期もあった。無職ではあるけれど、僕は希望に胸膨らませていたのだ。ただ、いまとなっては馬鹿馬鹿しい。それはただの時間潰しでしかなかったのだ。
事業を新たに始めるにしてもお金がない。お金がなければ何もできないし、かといって借金して勝負するほどコロナ禍の状況はまだ改善されていない。
当然のように50歳をすぎた初老の料理人を雇う会社などどこを探してもないし、面接に応募しようにも簡単に書類選考で弾かれてしまう。
それは、「お前は社会に必要ない、生きていても無意味な人間だ」という逃げ場のない宣告だ。社会から追放された状態。もはや八方塞がりで生きる活力も弱まってしまい、心労も祟ったのか2ヶ月半で僕は6kgも痩せていた。惨め極まりない。


僕が社会に存在する意味はなく、とうとう僕がいる世界は、白も黒もない透明な虚無の空間で埋め尽くされてしまった。




6月も半ばに差しかかるいま、僕は無色である。




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