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映画ノート⑮ 日中戦争で戦病死した天才映画監督山中貞雄

最近、『海辺の映画館―キネマの玉手箱』や『スパイの妻』などの映画の中でオマージュを捧げられ、今日でも多くの映画人の尊敬を集めている映画監督山中貞雄。                            監督昇進第1作『磯の源太 抱寝の長脇差』(1932)を撮った時、山中貞雄は何と弱冠22歳。この第1作がいきなりキネマ旬報ベストテンの8位にランクイン。早熟の天才と呼ばれた所以です。

その後、1937年までの僅か5年の間に何と26本もの作品を矢継ぎ早に発表、数々の名作を世に送り出しました。しかし、長い年月の間にその多くが失われ、現在まとまった形で我々が観る事ができるのは、『丹下左膳余話百万両の壷』(1935)、『河内山宗俊』(1936)、『人情紙風船』(1937)の僅か3本のみ。

日中戦争が始まった1937年、『人情紙風船』の封切り当日に招集され、その後、中国各地を転戦。翌1938年、中国開封市の陸軍野戦病院で赤痢(腸チフスという説もあり)のため戦病死。享年28歳。

従軍中の手記に「紙風船が遺作とはチト、サビシイ、負け惜しみに非ず。(中略)最後に、先輩友人諸氏に一言 よい映画をこさえて下さい。」と書き遺したエピソードは有名です。

ここから分かることは、日本陸軍は日本映画界の至宝ともいうべき若き天才監督を赤紙一枚で招集して前線に送り、むざむざと犬死にさせてしまったという事実です。人には持って生まれた才能や適材適所というものがあるはずですが、当時の招集担当者はそうした柔軟で合理的な発想など全く持ち合わせていなかったのでしょう。このような硬直した姿勢は、「総力戦」という観点からしてもマイナスでしかありません。

これでは日本が戦争に負けるのも当然です。ハードパワーで全く歯が立たなかったのは勿論ですが、ソフトパワーの面でもアメリカに遠く及ばなかったということです。

戦時中、ジョン・フォード 、フランク・キャプラ、ウィリアム・ワイラー、 ジョン・ヒューストン等の映画監督に戦争記録映画を撮らせ、国民の戦意高揚に大いに役立てていたアメリカとは、人材の有効活用という点でもまさに月とスッポン。

中でもジョン・フォードが撮った『ミッドウェイ海戦』は有名で、最前線まで行って撮影しただけあって、さすがに迫力のある映像です。           この時、ミッドウェイ島で撮影にあたっていたフォードは、折から来襲した日本海軍機の爆撃により負傷しています。

それでも、日中戦争が始まってから時間が経つと軍部も多少は学んだらしく、山中貞雄より後の世代の映画監督である山本薩夫(『翼の凱歌』他)、今井正(『望楼の決死隊』他)、木下恵介(『陸軍』)、黒沢明(『一番美しく』)等には招集をかけず、その代わりしっかり戦争協力映画(戦意高揚映画や国策映画)を撮らせるというように方針を変えて来ています。

もっとも、この中で山本薩夫だけは国策映画『熱風』(1943)を撮った直後に陸軍に召集されて山中同様中国各地を転戦しますが、これは学生時代に左翼活動で特高に逮捕された「前科」があることから、懲罰的招集だったと言われています。

生還した山本薩夫は、戦後、野間宏の小説『真空地帯』を映画化。凄まじい暴力といじめ、不正などが横行する腐敗した旧陸軍内務班の鬼畜のような実態を映像を通して容赦なく暴露しました。山本監督が身をもって体験した過酷で理不尽な軍隊生活が、演出の中でしっかり生かされていたことは言うまでもありません。出演した俳優たちも軍隊経験者ばかりでしたから、古年兵による暴力や新兵いじめのシーンで異様な迫力やリアリティが感じられるのも当然です。

山中監督のライバルでもあり、親友でもあった小津安二郎も山中と同時期に招集され、同じ中国戦線に送られましたが、幸運にも生き延びることができました。

二人が中国の戦場で偶然再会を果たし、束の間の旧交を温めるエピソードは、村上もとかの傑作大河マンガ『龍-RON-』で感動的に描かれています。マンガの中の山中伍長は主人公龍の窮地を救うためにひと働きするのですが、軍隊時代の山中貞雄がマンガの中で活躍するのは、多分この作品だけだと思います。

『龍-RON-』のヒロイン田鶴ていは映画女優となって満州に渡り、その後、満映理事長甘粕正彦の下で映画監督に転身します。その過程で入江たか子、栗原トーマス、尾上松之助、溝口健二、岡田時彦(岡田茉利子の父)、小津安二郎、山中貞雄等当時の錚々たる映画人が何人も登場しますので、映画ファンにはお勧めです。

小津のその後の活躍を考えると、山中の早すぎた死が何とも惜しまれます。
もし、戦後まで存命であれば、どれほど素晴らしい作品を生み出して我々を感動させてくれたことか・・・。

また、上記3作品以外の監督作品が、すべて失われてしまったことも痛恨の極み。 以下は作品リストのほんの一部です。

『磯の源太 抱寝の長脇差』(1932 キネマ旬報ベストテン8位)          『盤嶽の一生』(1933 キネマ旬報ベストテン7位 山中のシナリオを元に戦   後、何度も再映画化、ドラマ化。)                   『鼠小僧次郎吉 再び江戸の巻』( 1933 キネマ旬報ベストテン8位)     『風流活人剣』(1934 キネマ旬報ベストテン5位)           『街の入墨者』(1935 キネマ旬報ベストテン2位) 

(遺作の『人情紙風船』は、キネマ旬報ベストテン7位)           

これらの作品はフィルムが全く現存しないか、僅かなフィルム断片を残すのみ。ほぼ半数の監督作品が残っている小津とはえらい違いですが、監督自身が若くして戦死してしまったせいなのか、はたまた単なる偶然なのか。

もっとも、戦前の映画全体の保存率は僅か1割との事なので、その意味では山中の現存作品3本というのは平均的な本数なのかもしれません。戦前からの巨匠溝口健二でも残っている作品は2割程度なので、小津の約5割というのは例外的に破格の保存率ということになります。

戦前、戦後を通じて長らく日本の映画界自体が「映画は文化財」との認識がなく、特に戦前は、公開後終了後、上映用にプリントしたフィルムを短く切り刻んで家庭用として売り出すこともあったようです(フィルム断片だけが残っているのはそのため)。また、当時のフィルムは劣化が早く、可燃性で自然発火しやすいため保存が難しいという事情も。勿論、地震や火事、洪水等の災害、戦時中の空襲による被害も甚大なものでした。

長らく僅か1分間のフィルム断片しか残っていないとされてきた伊藤大輔の日本映画史上の名作「忠治旅日記」(1927)の35ミリフィルムが1991年に広島県の民家から偶然発見されたように、山中貞雄のフィルムも奇跡が起きて、どこかで発見されないものでしょうか。

中村錦之助(萬屋錦之助)と組んだ『瞼の母』『沓掛時次郎 遊侠一匹』『真田風雲録』などの作品で知られる映画監督の加藤泰は、山中貞雄とは叔父・甥の関係から「映画監督 山中貞雄」という本を書いています。
山中貞雄の人となりや今となっては幻になってしまった諸作品を愛情を込めて紹介しています。山中監督についてのまとまった伝記はこの本しかありませんので、興味のある方は一読をお勧めします。



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