訃報から
40年くらい前の話し。
JR元町駅の山側、鯉川筋を上がり、二つ目の角を左に曲がると私学会館という建物があった。その地下にかつて兵庫県映画センターという映画配給会社があり、ビデオもDVDも無い時代、学校や公民館でのフィルム上映を斡旋していた。検索してみたら今は別の場所にあるようだ。
1ミリでも映画に近づきたかった高校生の私はここによく用もないのに出入りしていた。業務を手伝う訳でもなく、観た映画の感想を話したいだけのウザい奴に、ニコニコと付き合ってくれたのが鵜久森さんという、いつもサングラスをかけた、サラサラ長髪のおじさんだった。
1984年。大学生になった私が初めて16ミリ自主映画を撮る時、自身もドキュメンタリー映画を撮っていた鵜久森さんに、色々相談に乗ってもらった。
鵜久森さんにその自主映画の脚本を読んでもらった。
すると「三国人が踊っている」という私が書いたト書きに、彼は「これは差別用語だよ」と指摘した。それはプロデューサーも学生ばかりのスタッフも誰一人知らないことであった。
それから30数年後。
大阪十三の第七芸術劇場で私の「みとりし」初日舞台挨拶があった日。
このツィートによると2019年9月16日。
私と榎木孝明さんが控えていた部屋に鵜久森さんが訪ねて来られた。
鵜久森さんはその時、無声映画の弁士、つまりカツベンのドキュメンタリー映画を制作中で、その打ち合わせで劇場に来ていたのだと言う。
「劇場のポスターに君の名前があったから、訪ねたんだ。30年位ぶりだね」
お互い、何とか映画つくってるね、もうちょっと頑張ろうと思う、なんかそんなことを話した。
寡作で知られた浦山桐郎監督が生涯9本だったので、私は二桁(10本)は撮りたい、と言うと「大きく出たね」と笑って皮肉られた。巨匠ウラヤマと比べるなんて、という事だろう。本数じゃないだろ中身だろと。
上の元町映画館の記事が今年の6月12日。この映画の監督が6月4日に急逝され盟友だった鵜久森さんが舞台挨拶に立ったのだという。
そして。
73歳か。40年前、33歳だったのか。
昔の大人は今の大人より大人だった。いつも悔やむ。もっと話しておきたかった。
鵜久森さん、俺、二桁まであと4本です。頑張りまっせ。
Rest In Peace.
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