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親愛なるわが友人へ(まったくの他人である君へ)


親愛なるわが友人へ
わたしは君の名前すら知らないけど、君にならこの話をしてもいいと思った。
だからここに書いておこう。
あまり明るい話じゃないから、落ち込んでいるなら読むのはよしたほうがいいかもしれない。

君は自分のまわりの人間のことを、敵だと感じたことはある?
わたしにはある。昔は、常にまわりは敵だらけだと思っていたよ。隙あらば自分に危害を加えてくるに違いないと思っていた。他人だってそんなにひまじゃないのにね。
今は違う。「敵に違いない」から、「敵かもしれない」になり、「敵ではないかもしれない」になった。ちまちまとした変化だけれど、だいぶ違うでしょ。
そして、もっと言うと、「味方かもしれない」とすら思うようになった。
とんでもない変化だと思わない?
なんでそう思えるようになったかっていうと、とても単純で、ある人物に
「私はあなたの味方です」
と言ってもらったからなんだ。
わたしはそれを聞いたとき、とっさに「そんなわけがない」と思った。
でも後になって考えてみて、真実だろうと判断した。
どういう経緯でそう言われたのか説明しよう。

わたしは過去のトラウマに捕らわれていた。
もう何年も前の話だ。
わたしに向かって「就職が決まらないからって、自殺とかしないでよね」と言って笑った人物がいた。
そいつは大学の就職課の、教員ではない誰かだった。
誰だったんだろうね? とにかく初対面だった。
わたしはうつ病の大学生だった。
そいつはたぶん、どこかの企業を定年で辞めて、就活アドバイザー的な肩書で大学に来たやつだった。
わたしはそいつの発言を聞いて、思いっきり馬鹿にされたと感じたし、自分の命を軽んじられたと感じた。
それでほんとうにわたしが自殺したらどうするつもりだったんだろうね?

それでまあ、それからはずっと、その言葉に傷つき続けてきた。
自分には生きる価値がないから、あんなひどいことを言われたんだろうって。
ことあるごとに思い出しては怒りと悲しみと自罰的な感情に捕らわれて、とても辛かった。

そして現在に至るのだけど、そう、わたしはまたそのことでパニックを起こしていたんだ。
わたしは自分がなぜパニックになっているかをある人に話した。
「自殺とかしないでよね」と笑われた経緯について話した。
そして、「私はあなたの味方です」と言ってもらったのだ。
「私はあなたの味方です」
「起こったことは過去のことです」
と言われた。
たったそれだけだ。
でもそれでじゅうぶんだった。
すっと気持ちが落ち着いて、パニック状態から抜け出ることができた。
実は、誰にも話したことがなかったんだ、あの件については。
嫌な気分になる話だし、言われた側が悪い、とか非難される可能性だってあった。
「ふざけるな」とか言い返せばよかったのに、と思う人もいるだろうし。

だからずっと自分ひとりで抱え込んでいたんだ。誰にも言うつもりはなかった。でも話してしまったんだ。話さないほうがいいと思っていたのに。
でも話してよかったと思う。話した相手が受け止めてくれたからよい結果になっただけで、基本的には言わないほうがいいと思うけどね。
それで、何が言いたいかというと……。

受け止めてもらうだけで、痛みがやわらぐことがあるということだ。
それが不思議でね、誰かに伝えたかった。
今まではぐらぐらする危ない場所でじっと必死になにかにしがみついているような気分だったのに、「味方がいる」と思うだけで、地面がしっかりして、立っていられるようになったんだ。
そして自分がいかに不安定だったかを知って、愕然とした。

わたしはひどいことを言われ、傷ついていて、それを忘れられずにずっと過ごしてきた。その後さらにまた何度もひどい目にあって、そのせいでなにも信じられなくなって、ぐらぐら不安定に暮らしていた。

今はほんとうに、地面がしっかりしていてよかったなあと思うようになったよ。これは比喩だけどさ。つまり、自分の足で立って歩けるということだ。たったひとりでも、明確な味方がいれば人は生きられるんだね。

親? 親はね、確かに味方ではあるんだけど、親であるがゆえにね、なかなか難しい。子供には期待してしまうし、子供がひどい目にあっているなんて思いたくないでしょう? だからかな、あまり暗い話はできないんだ。
わたしの話を聞いている親のほうが傷ついた顔をするからね。受け止めきれないんだよ、わたしの苦しみを。
その点、他人だと距離が離れているからいいね。

言われたことは消えない。
でも、言ってもらったことも消えない。

そう、過去のことはもう終わったことだ。それは確かな事実だ。
傷ついたことも事実だ。まだ痛みはあるし、それも事実だ。
うーん……。じぶんがアメーバみたいな不定形の生物だと仮定してみてくれる?
環境にあわせて自分の形を変える。何度も何度も。そうしているうちに、なにが自分でなにが自分じゃないかわからなくなってしまった。
それがわたしなんだ。
でも、人と自分は違う、過去と現在は違う、世界と自分は違う、と線を引いてもらった感じがする。
そういうのを心理学では「境界線」と呼ぶらしいよ。他者と自分の間に線を引くのは重要なことらしい。
わたしはやっと線を引くことができて、過去から逃げてくることができて、他者からも侵害されなくていいということがわかってきたんだよ。

これはわたしのケースであって、誰にでもあてはまるとは思わない。
傷ついた過去を開示するのはリスクを伴う行為だから、かんたんにはやらないほうがいい。
それでもいつか痛みから解放される時が来るかもしれない。
それを少しは信じてもいいと思う。

世界にはとんでもない数の人間がいて、それぞれの人生を送っている。
想像すると気を失いそうになるよ。
なんてことだろう。人は不幸になりやすい性質を持っている(ように思える)のに、そんな性質をもった生命体が、たくさんいるなんて。
恐ろしいね。
しかし生まれてしまったわけだ、君もわたしも。
腹をくくるしかないのかな?
いま、空はどんよりと暮れていくところだ。
わたしの地面は揺れていない。わたしと世界の間に線はある。
窓の外を見る。あれはなんだろう。空と呼んでいるけれど。そもそもは何なのかと問われたらなんと説明しよう。
こうしてどうにもならない思索に身をまかせてみるのもいいよ。
腹をくくって、ずるずるだらだらと生きようかなと思う。
明日も自分がいて世界があって、でもそのことが怖くない。
それだけでまあいいかと思うよ。
君も元気でいてほしい。
元気じゃなかったらプレッシャーになるかな?
じゃあ、元気じゃなくてもいいけど、なるべくなら元気寄りのかんじであってほしい。
じゃあね、また手紙を書くよ。
(どちらかといえば)お元気で。

友人より

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