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言語造形と宮沢賢治

長い梅雨の日の言語造形クラス。


宮沢賢治の「なめとこ山の熊」に取り組んでいます。

言語造形をすると、からだの細胞まで
楽しい!うれしい!気持ちいい!と言っているような感覚。


呼吸が深くなるからかもしれませんが、「音」と「響き」というものが

私たちのからだに深く染み渡って、命の源にエネルギーを注いでいるような気がします。


言語造形は、私たちの物質的な口から音が外に伝わるだけではなくて、肉の耳では聞こえない音をいっしょに空間に響かせていく。

一体どうやってするんだ!と思いますが、練習するしかありません。



わたしが初めて言語造形をしたときも宮沢賢治の作品でした。

そのとき、あまりの賢治の世界の美しさに、体験したことないものを私が言語造形で表現できるのか、先生に聞いたことがあります。

そのとき、言われたのは、

「見たことのないものも、行ったことのない場所も、ことばが連れて行ってくれます。」



今なら少しわかります。

ことばの音韻、そのことば、その物語に宿る精神が、

ことばと真剣に向き合えば向き合うほどに、私の心にリアルに響いてくる。


「なめとこ山の熊」という物語にも、

そのような精神の泉から渾々と湧き出しているもの、または鳴り響いているものがあります。



それを、言語造形で伝えたいとわたしたちは思います。



今回、 賢治の注文の多い料理店の「序」を思い出しました。


わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、

きれいにすきとおった風をたべ、

桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。

またわたくしは、はたけや森の中で、

ひどいぼろぼろのきものが、

いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、

宝石入りのきものに、かわっているのをたびた見ました。


・・・・

ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、

ひとりで通りかかったり、

十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、

もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。

ほんとうにもう、

どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、

わたくしはそのとおり書いたまでです。

・・・・

わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾切れかが、

おしまい、

あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、

どんなにねがうかわかりません。



賢治の見た世界を、言語造形できたなら。



感じるこころ。

言語造形は、わたしたちの「こころ」をひらいていきます。

ひらかれるところに、

今まで見えなかったもの、聞こえなかった音が 

滴となって落ちてくるのだと思うのです。



真実を知りたいという、誰もが持っているこの世界への問い。

その答えへの道のりは、芸術体験が欠かせないと最近強く思います。


言語造形は、ことばの芸術。

ことばを発する声や音が、その人に力を与える。


人によっては、

オイリュトミーという身体芸術からのアプローチがこころを強く動かす人、

色彩という視覚からの芸術がこころを響かせる人、

音楽という芸術からこころが解き放たれる人、様々だと思います。


わたしたちは、ことばそのもの、その音韻、響、そのひとの声に

こころ惹かれる人。


そんなひとが、言語造形に出会うのではないだろうか。


そんな仲間とこれからたくさん出会えることを、願っています。



興味のある方は、ぜひ一度体験してみてください。

次回は

8月17日(月)13:00から15:00

岩出市上岩出地区コミュニティセンターにて、行います。

お問い合わせ:mitteno20@gmail.com まで。




文:momo



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