mitteの庭
mitteの庭で開催される読書会のレポートです。
親子えんげき塾 ことばの泉 言語造形を通して私たち自身がまっすぐ立ち、明瞭にことばを放つ中で、感じたことを綴ります。
スタッフの日々、想うことや気づきを、思うがままに書いていきます。
月に1回、和歌山県岩出市でオイリュトミークラスを開催しています。
小さな子どもたちとの時間の中で、感じたこと、考えたことを綴ります。
今から99年前、ルドルフ・シュタイナーが普遍アントロポゾフィ協会の会員に向けてあてた18通の手紙。 「普遍人間学」を読み終えて、 次に読み進めていくのはその「会員への手紙」です。 この手紙は、シュタイナーが亡くなる直前まで送られたといいます。 とても切実な想いをシュタイナーは抱えていたのだと思います。 初めは小さな集まりから始まったアントロポゾフィの営み。それは静かに穏やかに、外からの妨げなしに進んでいました。 しかしそのうち熱心な学び手たちが芸術を通して、このアントロ
しばらく、言葉を紡ぐという行為をする意欲がなかったのですが。 久々に。 今まで、わたしが発してきた言葉は、真実のことばだったかな。 最近そう思うことがある。 わたしは、これまでの人生、色々な経験を通して、成長してきたと思ってきた。 自分の周りの世界の美しいところを見て、世界を信頼したと思ってきた。 芸術体験をして癒されたと思ってきた。 でも、わたしは、わかったと思ったことを本当にわかっていたのだろうか。 大事だと思ったことを心底大事だと思っていたのだろうか。
わたしたちのこころの技量、考える、感じる、欲するということは、それはそれ、これはこれ、という風にはっきりと分かれていない。 これまで、「考える」ということはどういう働きか、また「意欲」ということはどういう働きかということをじっくりと見て来たが、実は、この「考える」働きは、全き考える働きだけではなく、その根っこには「意欲」の働きを底流としていることがわかった。 また、反対に「意欲」の働きも同様に「考える」働きを底流としている。 そうでなければ、人は人としてあることはできな
私たちことばの泉の言語造形は、今、来年の3月の公演に向けて、練習を続けています。 今日は、その練習日。 キリスト生誕劇、古事記と2年にわたって、言語造形に取り組んできましたが、まだまだ言語を造形することってどういうことなのか、暗中模索中です。でも、これまでやってきたことは決して無駄ではないことを今日は感じました。 物語を語るとき、言語造形をするとき、まず手放さないといけないのが、エゴなのだと思っています。自分の話し方のクセや、物語に感情移入してしまうがために、変な抑揚が
言語造形で取り組む、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」。 コロナ渦を過ごしながら、これまでとは違う意識でことばの泉も動いています。 社会的なメッセージや誰かのためにやるのではなく、 私たち自身のためにやる。 という原点に戻り、思い切り楽しんでいます。 とりあえず、3月28日の発表に向けて練習に励みます。 この「なめとこ山の熊」は、猟師の小十郎と熊のお話です。 今日もひとりで練習をしながら、「いのち」のやりとりについて、 とても心に迫るものがありました。 「おまへは
しかし、人が「動機」を繰り出すとき、それだけではなく、そのもとに何かが静かに響いています。 その静かに鳴り響いているものが、「願い」というものです。 「願い」は精神の領域から鳴り響く意欲です。 「動機」から何かをなすときに、さらによく為す、あるいは間違えて為す「願い」が、「動機」意欲の下にいつも鳴り響いています。 「願い」というと、うまく為すことへの思いのような気がしますが、この場合、間違えることへも響く「願い」なのです。 それは、うまくやりたいことが成功しても、
オンライン読書会ルドルフ・シュタイナーの「普遍人間学を読む」のレポートです。 長いので、2回に分けて投稿します。 今回は人間の「意欲」とは、一体何かということについて、学んでいきました。 私自身、現在の教育現場で子どもたちに一番大切に育むべきものは、「意欲」ではないだろうかと、ここ数年は実感していました。 ただ、それは学ぶ意欲であったり、世界への好奇心であったり、子どもたちがワクワクして学ぶ場所はどうやってつくられるのか、といった私の思う日本の教育の課題の1つとして存
長い梅雨の日の言語造形クラス。 宮沢賢治の「なめとこ山の熊」に取り組んでいます。 言語造形をすると、からだの細胞まで 楽しい!うれしい!気持ちいい!と言っているような感覚。 呼吸が深くなるからかもしれませんが、「音」と「響き」というものが 私たちのからだに深く染み渡って、命の源にエネルギーを注いでいるような気がします。 言語造形は、私たちの物質的な口から音が外に伝わるだけではなくて、肉の耳では聞こえない音をいっしょに空間に響かせていく。 一体どうやってするんだ!と
シュタイナーの普遍人間学 第3講 レポートです。 本当に、この読書会はまったく目に見えないもののことをずっと考えている。参加者みんなして、その見えないものを必死で見ようとしている、そんな読書会です。 そんなことに意味があるのか、と思うかもしれませんが、物質主義の世の中であまりにも目に見えないものを除外しがちな時代、 でも見方を少し変えると、目に見えているものの方が、本当は全体のほんの一部なのだと思うのです。 その見えないものの中に、私たちが忘れてしまっている大切
3ヶ月ぶりくらいの読書会で、久々に精神の世に触れさせていただきました。光の呼吸を教えていただいた時、昨年の古事記の世界が浮かび上がってきました。 「私たち一人一人が光を下ろす柱となる。」 このことこそが、アントロポゾフィを学び続ける意味であり、終わることのない自己教育の意味だと思います。 私たち日本人ならではの感覚で、光の呼吸のメディテーションを普段から意識していきたいと思いました。 私は今、農作業のバイトをしているのですが、紐でつるしたり、芽
昨年の12月、ちょうど半年前。 2019年の公演を最後に、ことばの泉は長い間お休みしていました。 そして、今日。 ひさびさの活動再開。 言語造形に、いや芸術自体に触れる機会からから遠のいた日々。 その日々を経ていま、自ら湧き上がる純粋な衝動とともに、再び言語造形がはじまりました。 半年ぶりのことばの世界。 空間に響く音韻の世界。 満たされる。 ひさびさに言語造形をして、 「わたし」が 体の中の まぎれもない私の席にすわる。 そんな感じがしました。 そして、
2020年2月の普遍人間学を読む会in和歌山のレポートです。 今回もなかなか読み応えのある読書会でした。 どんどんアントロポゾフィの深みに入っているので、レポート書くのもちょっとドキドキします。 が、書きます。 前回はシンパシーとアンチパシーについて深く考えていきましたが、今回はそれに続いて、 「神経」と「血」とは一体なんなのか。 というお話でした。 私たちは、これまで学校や社会の中で、現代の自然科学を学んできているので、ちょっとびっくりする視点です。 既存の
mitteの庭で、小学生のためのオイリュトミークラスの開催に向けて、オイリュトミストの鈴木智子先生による体験会が行われました。 小学生のオイリュと ミーを大人も一緒に体験するという形でした。 それは、大人のオイリュトミークラスとは、また全然違うものでした。 先生がこどもたち(大人たち)と握手してから、はじまります。 頭は 光の中に 足は 大地の上に 心は 喜びと共に IAOのことばを からだを使って行っていきます。 二人で動いたり、みんなで動いたり、
昨年末、約10ヶ月におよび練習してきた、古事記の傳への公演を終えて、 それぞれが、また日常へと戻っていきました。 冬至を迎え、気がつけば年末。 子どもたちは冬休みに入り、大掃除に正月の準備へと母たちはバタバタとして現実を過ごしていました。 その中でも、あのときの古事記の傳への体験は、 今でも私たちの中で生き続けている、そんな気がしています。 新しい年が明け、 今回の体験をことばにしたいとずっと思っていましたが、 遠い昔のような気がしたり、思いというものがあまり浮
本日、 Mitteの庭 の大人の学び場は 大人のオイリュトミークラスでした。 3人がそれぞれ 大・中・小の五芒星の上を 1辺ずつ I (い) A(あ) O(お) U(う) E(え) と言う母音のフォルムを表しながら移動してゆきます。 あってる??? 3人の歩くスピードや 行く方向をイメージし どこに到着するか 人と自分とのバランス そして自分の内側で起こっている感覚・・・ 体を動かす意思の力 先生の母音の響と共振するハートの感覚 中心にある 私と言う感覚・・・
普遍人間学を読む会 2020年1月レポートです。 新しい年がまた始まり、新年初の読書会。 この普遍人間学は、私たち「人」というものをつかむ学びです。 まずもって人は 3つの部分に分けて考えることができます。 それは 「からだ」である人 「こころ」である人 「精神」である人 シュタイナーを学ぶと、この3分節は避けて通れませんね。 私はいつもこの「精神」ということばに問いを持ち続けています。 まだ、私の中ではっきりとした答えはありませんが、もしかして