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音がその音としてなりたい音

私たちことばの泉の言語造形は、今、来年の3月の公演に向けて、練習を続けています。

今日は、その練習日。

キリスト生誕劇、古事記と2年にわたって、言語造形に取り組んできましたが、まだまだ言語を造形することってどういうことなのか、暗中模索中です。でも、これまでやってきたことは決して無駄ではないことを今日は感じました。


物語を語るとき、言語造形をするとき、まず手放さないといけないのが、エゴなのだと思っています。自分の話し方のクセや、物語に感情移入してしまうがために、変な抑揚がつくことを、とにかくやめる。


そのためには、そのことばの音を信頼して聴く。信頼してことばを発する。ことばの音韻と真摯に向き合うことで、導かれていくものがある。


今日、先生は始める前に、「人の考えや感じるところは、私たちの外側にあるんだ」ということを言いました。

いやいや、考える私は私の内側で起こってるのではないの?と思うかもしれませんが。


内側に閉じこもって考える、感じることは、実は不自由なことであり、本来人は、私という物質の人間の外側の広やかなところで、ものを感じ考えているのだということを教わりました。

私たち人間の、私たちの意識や考え、感情は、この見える肉体から見えない外側にもっとずっと広がっているものその全体から成っている。


ほんとう、そうかもしれない。


だから、私たちの声も言語造形では空間を後ろから、前まで全体を使って鳴り響かせるのだと思うのです。

人はそこから感じるものがあり、感じることができるのです。

ほんとうに、芸術は奥が深い。


今日は今までになく、私たちのすぐ横に、小十郎がおり、クマがおり、山があり、雪が冷たく、月が青くこおりのようにありました。


音がその音としてそうなりたい音を、私たちが出せたとき、ありありとその情景や像が質感までも伴ってそこにあらわれる。


不思議な世界です。

私たちは、そこに自分の体と声しかないのにもかかわらず。。



この「なめとこ山の熊」という作品は、語りを主としたものですが、一人で語るのではなく、二人で語ります。

そこで、熊と小十郎のやり取りなどが、語りとはまた違う形で造形されます。


そのときの身振りを実際にしながら練習する、ということを今回の練習でやってみたのですが、身振りが本物のことばを生むということが身をもって感じることができました。


よりリアルに物語が迫ってきます。


なぜ、小十郎は熊どもを殺してはいても、熊どもはそれを決して憎まなかったのか。なぜ、熊どもは小十郎を好きだったのか。


ただただ、読んでいるだけではわからない。わかったとしてもきっとそれは頭でわかっているだけ。それを言語造形でどう伝えていくか。


ここに立ってる私たちが、毎回毎回、真実のことばを感じること、そこに向かってことばを繰り出していくことでしか、つくり得ることができないのです。

そこにむかってこつこつ練習していきたいと思います。




文:momo


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