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外向けのプロフィールには載せてない事 Part 5 メキシコ留学編 Vol.1

いざ、メリダへ!

1999年1月吉日(←もう覚えてない!笑)もちろん、今回も超格安チケットでの超長旅。成田からロサンゼルスまで行って乗り換え、その後もう一度メキシコシティ乗り換えて、そしてようやくたどり着いたユカタン半島の南部の観光地カンクンに到着。(ここまで30時間ちょい!)そこから長距離バスに乗って約4時間北上してようやくユカタン州の州都メリダに着いた。いよいよおいらのメキシコアドベンチャーの始まり!

メリダのホストファミリーの家に着いた時には、茨城の実家を出てから既に41時間くらい経っていた。(いや、あと数万円足せば16時間で着けたけどね。。。お金節約しないとね。。。でも40時間てね、サラリーマンが定時で働いて1週間分の労働時間ですよ。。。長!)

語学留学の質はホストファミリーで決まる。

さて、予めミシシッピの大学が紹介してくれて、数ヶ月前からメールで連絡を取り合っていた心優しいホストファミリーとの対面の時が来た。しかし、向こうとしても、アメリカ南部の大学からの留学生(しかも長旅で汗臭い24歳の日本人!!)を受け入れてくれるってどんな感じだったんだろう。向こうとしても結構不安もあるのかな?なんて呑気に考えていた。

到着前にメールで何度かやりとりをした時、好きな食べ物とか、スポーツとかいろいろ聞かれたりして、その時は初めてのメキシコの生活でワクワクドキドキで気づかなかったけど、日本を出た頃から一つの不安を感じていた。ユカタン大学の関係者と比べて、メールの英語がやたらと流暢でまるでアメリカ人とやりとりをしているみたいにスムーズだった。実は英語ペラペラだとか? それはやばい。せっかくこんなに遠くまで来たのに英語で喋っていたらスペイン語の上達が遅れてしまう。。。半年しかないメキシコ生活だ。絶対にスペイン語をマスターしなくては。

メリダのバスターミナルに着いた。1月だというのに日本の初夏のような気温と湿度。4時間の間、クーラーのガンガン効いた肌寒いバスの中でうとうとしてたので、バスを降りた瞬間、熱風のカーテンを潜ったような感じがして、全身の毛穴からじっとりと汗が滲み出るのを感じた。うわ〜。俺汗臭いかもな…と思ったその時、「Are you Mr. Yamazaki?  Mitsuhiro Yamazaki?」と流暢で陽気なアメリカン・イングリッシュで白髪のおじさんが話しかけてきた。そう。これがメキシコのホストファーザー、ドン・ビクトル(Don Victor。ちなみにドンはファーストネームにつける「〜さん」みたいな感じ)との出会いである。「Yes! Hi. You must be señor Salazar. 」とつられて英語で答える自分。。。ここからがトラブルの始まりであった。

彼の家までの約20分、初めて見るメリダの街並みを眺めながらドン・ビクトルとミシシッピの大学のことや日本の家族の事を話したのだが、普通はね、この辺りで(僕の勝手な憶測では)初めてみる外国の街並みを見ながら、新しい生活をイメージして心躍るはずであったのだが。。。逆に角を曲がるたびに気持ちが沈んでいく自分 がそこにいた。何故なら僕らの会話の95%は英語だったからだ。到着前のおいらの悪い予感は的中したと確信した。

ドン・ビクトルの話によると、彼は生まれも育ちもユカテコ(ユカタン人)なのだが、高校を出てからつい数年前まで(約40年くらい?!)ロサンゼルスのガソリンスタンドを経営していたという。だから英語はネイティブなみ。しかも、数年前から自分の英語を忘れないようにアメリカの大学生を受け入れてるという。おいおい!それじゃぁ語学留学の意味がないだろう!っと失礼がない言い方で突っ込んでみたが、時既に遅し。あっけらかんとした態度で、今まで特に苦情を言われたり問題になったことはないと切り返された。そこでおいらは言ってやったよ。僕は苦労して英語勉強して、ようやく大学に入って、今度はスペイン語をマスターして帰りたいので、僕と英語は話さないでくださいと。

でもね、家に着いてみたら息子二人も結構英語ペラペラだった。しかも上の兄さんは100キロくらいはあるそれはそれは濃い〜顔の大男。しかも典型的な情熱ラテン系。弟はすらっとしてて大人しそうだけど、いつも兄さんに突っかかって喧嘩ばかりしている。

でも悪いことばかりではなかった。家は180年くらい前に建てられた大きなスパニッシュ建築で、天井が高く、廊下はタイル張りの素敵な住居で、その中でも2番目に大きな部屋を割り当てられた。部屋にはキングサイズのベッド、ハンモック(ユカタン半島が発祥の地!)、そしてシャワー室がついていた。何よりの救いは、ホストシスターのベロニカ(当時14歳)はとっても美人で気立てが良くて、しかも英語をほとんど話せなかったことだ。(でも自分のスペイン語が下手すぎて、ゆっくり話すことはあまりなかった。。。)

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(写真)ホームステイ先の家。

始めの数日はドン・ビクトルも英語を控えてくれて、みんなにお土産を配ったり、自己紹介をしたりしてスペイン語の勉強になったが、2週間を過ぎたあたりで、あと3名の留学生が合流した。(おいおい、聞いてなよ〜!)最初に着いたのは名門校U.C. Berkeley(カリフォルニア大学バークレー校)からの語学留学生二人。モデルのように背の高い白人女性とアジア系の女性の仲良し二人組だが、スペイン語はほとんど話せなかった。次に来たのスイス人の建築家の卵。彼はフランス語なまりがあるけど単語が似ているせいかスペイン語の語彙がすごくさんあって会話はうまかった。アメリカ人、スイス人、そして(アメリカから来たけど)日本人が揃うと家の中の公用語は必然と英語になっていき、僕の日々のストレスは溜まっていった。ついでに春休みに、昔この家にホームステイしてたアメリカ人の学生が春休みに泊まりに来た。どうやらこの家では外国人の受け入れを年がら年中しているようだと後でわかった。

新天地での新たな挑戦

2ヶ月が過ぎた頃、メリダのダウンタウンでたまたま不動産屋のチラシを見かてた。すると驚くべき事実を発見してしまった。ダウンタウンにある1DKのお洒落アパートの相場は月に1000ペソ(1万2千円)から3000ペソ(3万円)くらいとある。でも、よくみるとあまりイケてない安い1DKのアパートはなんと500ペソ(五千円)しないものもあるではないか!当時ドン・ビクトルの豪邸の一部屋(食事、洗濯、掃除付き)で一月400ドル(4万円)払っていた僕は、お小遣いほぼゼロの切る詰めた生活をしていた。それはアメリカに戻る前にマヤ文明の繁栄したチアパス州、カンペチェ州、オアハカ州などを旅したかったからだ。もし、月々の家賃が節約できて、自炊すれば生活費はたぶん半分の2〜3万円くらいに抑えられるはず。そうすれば一回ではなく2〜3回は長距離バスで(貧乏)旅行ができるはずだ!

思い立ったが吉日。もう既に英語漬けのホストファミリーとの日々に嫌気がさしていたおいらは、直ぐに不動産屋に駆けこんで拙いスペイン語でアパートを探してもらった。月5〜6千円の物件で大学までのバスに直ぐ乗れるところを3件ほど見せてもらい、その日のうちにそのうちの一件に敷金を払った。

ホストファミリーの家に帰り、お金を節約したいので、6ヶ月の約束だけど来週からアパートに住むとドン・ビクトルと奥さんに告げると、彼らはプチパニックに陥った。気まずかったけど小一時間話してわかった事は、なんと彼らは留学生の受け入れで収入を得て生活費に当てていたという事。確かにドン・ビクトルは仕事はしていなかったので、なんとなく不思議ではあった。いわば海外との物価の差をうまく利用した、物価が安いメキシコの地方都市だから成り立つ商売である。

当時のメリダの物価はミシシッピの約八分の一だから、僕が払っていた$400/月の家賃はアメリカの約$3200に相当する。留学生が4人ステイしている間は月130万円くらいの手取りがあるから、お手伝いさんを週に3日雇って食事を毎日3食出しても十分に儲けが出るわけである。

逆を言えば、僕一人抜けてもそれほどの痛手ではなかったのではないかと思ったが、そこには彼らなりの事情があるのであろう。でもおいらとしては、そんな贅沢は敵である。数日後、早々にお礼と別れを告げ僕はメリダのダウンタウンに程近いぼろアパートで一人暮らしを始めたのであった。

ぼろアパートでの生活

住み始めてわかった事。それはメキシコのぼろアパートはアメリカのそれとは比べ物にならないほど貧そで住みづらい事。やすアパートなのでクーラーが無いのは結構当たり前で覚悟はしていた。しかし日中の気温が45度まで上がるとコンクリートの壁と直射日光の当たる床はフライパン状態。昼間は部屋にいるのは危険であった。寝るのはハンモックのみ。せめてマットレスでも置こうかと初めは思っていたが、隣の住人が、ベッドで寝てるとサソリに刺されるからみんなハンモックで寝るのさと教えてくれた。引っ越して3日目に体長12〜3cmの黒光りしたサソリに部屋で遭遇した。それから毎晩のように隙間だらけのぼろアパートの床にゴキブリや見たことのないような珍しい虫がうろうろしていた。

温水は出ない。しかし給水タンクが直ぐ上の屋上にあるので、昼間は日光を浴びた熱すぎるくらいの熱湯しか出なかったので、ちょうど良い温度に下がる夜中にシャワーを浴びた。キッチンはシンクと一口の電気コンロしかなかったので、食事はほとんど外食。朝ごはんはフルーツやトルティーヤにチーズを挟んだものとオレンジジュースで簡単に済ませ、近所の食堂で一食100円くらいのスープやタコスを食べた。大学に通っている間は、人気がないシエスタ(12〜15時の間のお昼寝タイム)に学内のマンゴーの木から熟れた果実をとって内緒で昼ごはんにすることもあった。めちゃくちゃ美味かった。

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(写真)ユカタン大学人類学部の校舎。学内はたくさんのマンゴーの木が繁っている。

そうしてはじめの3ヶ月があっという間に過ぎていった。

つづく。







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