「天才の病理と創造」

「中井久夫集Ⅰ 働く患者」より、「ポーの庭園」「数学嫌いだった天才数学者-ラッセルとウィーナーの病跡学」を読む。
中井の著作としてはエッセイの趣の強い作品で肩肘張らずに読めた。
「ポーの庭園」において、興味深いのはポーの詩の構造や世界観を、ヴァレリーのそれと比較をして川の遡行を比喩に、ヴァレリーの健康的な漕ぎ手とは逆に、「船頭すらその存在は定かでない」ものであり、小池から旅人は案内人の姿も見えない船に乗り換え、遡行は川下りになり、速度を増し、幻想的風景がひらけるものであると中井はいう。そして、ポーの自身のアルコール酩酊を指摘し、その酩酊による文学的効用についても触れるが、アルコールのみによって、ポー独特の世界観が説明しきれるものではないことも言い添える。

「ポーにとって創作と酩酊は、等価的にたがいに交換され補完しあう。純粋知性への惑溺と自己顕示的陶酔の追求と緩慢な自殺のような泥酔とは、ポーにあっては一つの根から出たものではなかろうか」

創作における精神作用とアルコールの関係は、ポーにおいて相補完性を持つものであったと中井は指摘する。
文学者と精神病理の親和性の話題は古典的なものだ。私はデューラーの銅版画をここで思い出す。芸術家とメランコリーな気質とは不可分なものであり、健全と芸術とは最も対極にあるものであるとの前提がどこかにある。ポーのアルコール依存も、その上では決して驚くにあたらないことであるとも思う。
創作、もっと言えば、ある次元の知的活動や領域と精神病理との問題は、一般的な問題であり何か法則性でもありそうな気がする。「ポーの庭園」を読んで改めてそのことを感じたのだ。

「数学嫌いだった天才数学者」においては、2人の天才、ラッセルとウィーナーが取り上げらる。この2人は数学者であるものの、対照的である。ラッセルは上流階級に生まれ、祖母によって独特な家庭教育を受ける。反抗を示さず、幼児語を全く使わない子どもであったラッセルについて、中井は「このように、小児が成長してゆく上で何よりも必要な、密接な情緒的接触という心の栄養が欠けている環境で、外界から隔離されほとんど全く同年輩の人間を知らず、変わり者の大人の間に住んで全く反抗を示さなかったと聞けば、精神科医はそれだけでぞっとする」と書いている。その心理的背景を、子どもの「捨てられる恐怖」にあると中井は指摘している。そして、ラッセル自身も祖母に捨てられる恐怖について語っている。
根本的信頼感の乏しい生育環境の中で育った彼であるが、「ついに耐え通した」。そして、ようやく80歳を越えて自らの「深淵」を自伝に記す。ラッセルを支えたものは知性であったと中井は書く。ラッセルについてはもう一つ興味深いものがあり、この一族は何人かの精神疾患者を抱えていた。恐らく遺伝的なものもあると考えられるが、フロム・ライヒマンの「統合失調症をつくる母親」との言葉を引きながら、ラッセルの祖母の描写も行なっている。
上流階級出身のラッセルとは異なり、ウィーナーはユダヤ人の父を持つ神童であった。この父はヨーロッパからアメリカに渡り、高校の語学教師からハーバード大学の教授になっている。ウィーナーの神童ぶりを父親は誇ったものの、それは自らの教授能力を誇っていたに過ぎず、父親に罵られて育ったウィーナーは劣等感の強い人間としてしまった。
中井は「神童であることは精神発達の諸段階を自然な形で次々に通過してゆけないことである」と指摘する。実際ウィーナーは「半ズボンの大学生」と呼ばれ、昼間は20歳過ぎの同級生たちと議論し、帰宅してからは同年代の小学生たちと遊ぶという、分裂した生活を送った。このことについて、「彼は大人と子どもの世界の通行権を同時に二つながら手に持っていた。けれどもそれは同時にどちらの世界にとっても異分子にすぎないという犠牲をはらって獲得したものである」と中井は指摘している。ウィーナー自身は、このことに後年気づくわけだが、「自分が周囲からみれば奇形児の一種にすぎない」ことにショックを受ける。家庭内においてもウィーナーは知的能力が頼りの父と、南部アメリカに同化しきった母と、両方との知的/情緒的繋がりを結びつける役割を担った。そしてウィーナーの家庭は大家族であり、長男としての特権と責任とがのしかかっていた。
ラッセルとウィーナーの両者を比較して、中井は「ラッセンの孤独に対してウィーナーはむしろ赤裸々な人間の葛藤のうず巻く中に育ったといえよう」という。ウィーナーは職を転々とするが、MITの自室の窓からチャールズ河を見下ろし、その川波のうねりを数学的に取り扱えないかと直観し、数学者として彼を拓かせる。
ラッセルが「経験をこえたところに数学の本質を見、さらに数学の底に何があるかを探ろうとした」のに対し、ウィーナーは、「現実の無秩序と豊富をできるだけそのまま数学化することをめざした」と中井は指摘する。

天才の持つ病理性とは、どうも家庭にその源泉がありそうだと思った。天才自身の持つ気質というものも当然ありそうだけれど、ラッセルにしろウィーナーにしろ、家庭環境に少なからぬトラウマを持っており、それが生涯にわたって強い影響を与えている。彼らには数学という才能があったわけだが、多くの人はそうした才能を花開かせることなく、日々の社会生活の中で家庭内の病理を燻らせるより他ない。
その文脈で、精神疾患とはこの病理の一つの表出に他ならない。家庭内の病理とは、父母の病理であり、それは遺伝要因も含め、脈々と受け継がれてきたものである。天才の場合はより先鋭的な趣きを持つところに特徴があるように思う。教育、他者との関係性、社会生活全般において彼らは独自の世界観を持ち、生きている。このことを描いたのが本エッセイであったと思う。

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