短編創作「遮断機」

 その日、わたしはいつもより早めに家を出た。
 十一月下旬の朝六時、ブレザー越しでも伝わる寒さに身を縮こまらせながら歩く。青白い帯の掛かった空を見上げると、夜明けはまだ少し遠いのだと実感する。きちんとした朝を迎えないまま外を歩くのは初めてかもしれない。纏う空気がどこか違う。わたしは朝練習がある部活には所属していないから、こんな早い時間に家を出ることは本来ない。
 つい気持ちが前を行く。
 冷たい風が頬を切るのも気にせず、わたしは先を急いだ。

 通学路の途中には開かずの踏切がある。
 生徒の間ではそこはちょっとした有名スポットだった。こんな田舎町で、大して電車の本数もないのに、いつも遮断機の音が響いている。迂回すればいい話だけれど、ここを越えれば学校まではあと一息なので、大体の生徒は黙って待つ。ときおり、くぐり抜けて行く人を見かけるけれど、わたしには真似できない。
 踏切が視界の先に小さく見えてきた。まだ少し距離はあるけれど、相変わらず遮断機の音が微かに聞こえる。段々と踏切の先が見通せる距離まで来ると、同じ制服を着た女生徒が待つ姿が見えた。瞬間、わたしは小さく息を呑む。彼女だった。
 目を伏せながら近づき、少しだけ距離をあけて彼女の後ろに立つ。周囲にはわたしたち以外誰もいなかった。遮断機の音だけが規則正しく響いている。ひとしきりして、顔をおそるおそる上げて相手の様子を窺った。すると、彼女がこちらを見ていたので、思わず飛び上がりそうになる。彼女は軽く噴き出して、おかしそうに笑った。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
 面食らってしまったわたしは、ほんの数秒の間、その顔をじっくりと見つめてしまう。でもそれはすぐに途絶えてしまって、また視線を逸らす。ごめん、と力なく声が漏れた。彼女は一つ小さな息を吐くと、再び前を向いた。
 わたしと彼女は中学からの付き合いだった。高校に進学してからは別々の教室だったから、普段の生活で顔を合わせる機会はほとんどなくなっていたけれど、連絡のやり取りは続けていた。
 でも今は、これまでどんな風に言葉を交わしてどんな顔付きで向き合っていたのか、分からない。頭が真っ白になりながら、言葉を必死に探す。これじゃ、何のために早く家を出たのか分からない。
 電車は一向に来る気配がない。遮断機の音はまるで警告音のようにわたしの心を急き立てる。やがて、はっきりと決まった言葉も選ばずに、口が先に動いてしまった。
「本当に、転校するの?」
 彼女がこちらを振り向く。その小さな口元を漂う白っぽい息とか、肩にかかった髪の隙間から覗かせる耳たぶとか、化粧っ気のない肌の色白さが、ここじゃない別の場所にいる人のように透き通って見える。
「知ってたんだ」
 なぜか嬉しそうに彼女は答えた。わたしは間を入れずに尋ねる。
「いつ?」
「来月」
 それは、まるで余命宣告でも受けるみたいだった。今日は朝練習に出たついでに先輩にも話さなくちゃ、と彼女は依然として笑みを絶やさない。すると、今度は彼女の方が質問を投げかけた。
「あなたはいつ知ったの」
「昨日、職員室で先生が話しているのを聞いたのよ」
 本当はその瞬間から、一分一秒でも早く、直接会って話をしたかった。でも、いまいちその勇気が出なくて、結局一晩考えた結果、この行動に行きついた。
「もっと早く、言ってほしかった」
 唇を噛むのを見られないように、また目を伏せてしまう。
「ごめんね、いつ言おうかずっと悩んでいたの」
 彼女は申し訳なさそうに言いながら、風でわずかに靡いた髪を耳にかけなおす。
 またしばらく、お互いを沈黙が包む。今この時間を繋ぎとめているのは、開かずの踏切だけだった。電車が通過して、遮断機の音が途切れてしまえば、わたしたちは再び歩きださなければならない。今だけは、この音がやまないで欲しいと、ほんの少し願ってしまう。
 けれども、そんなわたしの気持ちが伝わることはない。
 それどころか、彼女はゆっくりと、閉ざされた線路に近づいていた。
 なぜ、という言葉が頭に浮かんだ頃には、彼女はすでに遮断機をくぐり抜けて、線路内に入っていた。
 慌てて呼び止めようと手を伸ばした時、突然彼女が踵を返す。
「わたし、一度でいいからやってみたかったことがあるんだ」
 そう言いながら、鞄を地面に置いて、細長い両腕を高く上げる。そして、まるでバレエダンスでも踊るみたいに、体を回転させ始めた。徐々に姿を現す朝日に照らされながら舞う彼女と、張りつめた空気と、誰もいない踏切は、それこそ一つの舞台のように輝いて見えた。主演はもちろん彼女で、観客はわたしだけ。今、世界で一番綺麗なものが生まれる瞬間に立ち会えていると、心の底から思った。終始、その光景に目を奪われてしまう。
 しばらくして、遠くから電車の音がした。
 我に返ったわたしは今度こそ危ないと感じ、再び声をかける。彼女は、踊り続けていた動作をぴたりと停止させると、鞄を拾い上げて向こう側へと渡った。
 わたしたちの間を乗客もまばらな電車が通り過ぎる。いつもより、その時間が長く感じられる。やがて電車は通過し、線路の向こう側には、去った車両を見つめる彼女の姿があった。遮断機の音がやんで、バーがゆっくりと上がる。わたしは踏切を一気に駆け抜けて、彼女の腕を掴んで強く揺すった。
「何してるの、危ないよ」
 しかし声を張り上げても、彼女はどこか遠い目をしながら、まだ過ぎ去った電車を見つめている。完全にそれが見えなくなってから、ようやく口を開いた。
「あれに乗って、わたしはここじゃない別の場所に行くのね」
 整然な顔つきで紡がれた言葉には、空気を伝って感じられる確かな重みがあった。直後、彼女の表情にふと温かみが戻ってくる。
「今の振り付け、わたしが考えたのよ。どうだったかしら」
 瞬きを繰り返しながらこちらを上目遣いに見てくる仕草が、本当にあざとい。
 彼女を掴む手に力が伝わらない。どうやらもう、その必要もないみたいだった。今できる一番の笑顔を作って、彼女を真っすぐに見つめる。そして、喉の奥から手繰り寄せた声で言った。
「また、見せて欲しい。必ず」
 わたしの言葉に、彼女がわずかに目を見開く。それから、やわらかく微笑みを浮かべて、頷いてくれた。その瞳には、艶のはっきりとした光を留めていた。

 こうして、彼女はこの学校から、この町からいなくなった。
 だからといって、わたしの日常に劇的な変化が起きたわけでもなく、あの日に見た光景にはどうにも現実味を感じられずに、日々は繰り返されていた。
 わたしが彼女の踊りを見たのは、今もまだ、あれが最初で最後のままだ。
 でもときおり、不意を突かれるようにして、あの時の彼女の姿が脳裏に呼び起こされる瞬間がある。それは、授業中であったり、家で読書をしている時であったりと様々だ。
 その瞬間にはいつも決まって、遠くで遮断機の途切れる音が聞こえていた。

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