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オンライン「哲学カフェ」に初めて参加してみた

 退職前から興味はあったけれど、なかなか参加することができなかった「哲学カフェ」。
 「孤独とは?」「幸せとは?」等の哲学的なことについて話す会だ。
 とはいっても、私は哲学に詳しいわけではない。読書は好きだけれど。
 でも、「読書会」というのは、結局読解に関して意見が割れたり議論になる部分がありそうで嫌だし(本は自分勝手に好きに読んで楽しみたいし)、ただ、答えがないことについて色々と話すのは面白そうだと思っていた。
 が、「哲学カフェ」というリアルな喫茶店に行く勇気はなかった。「歌声喫茶」のようなイメージで、一見さんが行くと常連さんのパワーに圧倒されそうだし、もし「合わない」と思った場合も一定時間過ごさなくてはいけないのが苦痛ではないかと思ったからだ。

 ところが、最近、コロナの感染拡大もあって、オンライン開催の「哲学カフェ」もよく見かけるようになってきた。しかも、途中入室や退室OK。それなら「合わない」と思ったらすぐに抜けられる。リアルよりハードルが低く感じられた。
 先日、無料で途中入室退室OK名前もニックネーム可というオンライン「哲学カフェ」の会があったので、「えいやっ」と参加してみた。その時のテーマは「顔」。コロナが長引いて、マスクで顔を隠すことも多い今、顔の意味や価値について話す会だった。
結果…
頭を使って考えたので結構疲れたけれど、普段考えないことを考えたり話す感じが、すごく面白かった。途中休憩も挟んで二時間、あっという間だった。色々な考えを聞いて、会が終わってからも考え続けてしまうくらいだ。

 思えば…勤めていた頃、職場では自由に会話をする時間なんてなかった。仕事のホウレンソウをしていたら勤務時間なんてあっという間に過ぎてしまうし、他のことを話す時間なんてなかった。下手すると、ホウレンソウすら、めちゃくちゃミニマムに要点だけしか伝えられないくらいだった。世間話も、下手に対立して仕事がしにくくなったら困ると思って表面的なことしか話していなかった。自分がどう思うかというより、どんな結論にしたいのか、逆算して戦略的に会話をすることしかなかった。職場での会話は、娯楽ではなく武器だった。
 よく、「退職したら話す人がいなくなった」という話を聞くけれど、忙しい職場での会話って、そのことでほっこりするというよりも「時間泥棒」だと思っていた。話の長い人は、それだけで避けて通りたいくらいだった。
 女子会のような集まりも、結局、声が大きな人のグチや悪口を聞く会のようになりがちだ。押しが弱いと聞き役に徹してしまいがちだと思う。

 それと比べて、司会がいて「お互い批判しない」「自由に意見を言ってよい」「何も言わなくてもよい」という「哲学カフェ」は、本音を話しやすい。会話らしい会話ができたという充実感があった。もともと時間が決まっていることもあって、その時間内での会話を楽しむことができた。
 ただ、お互いニックネームということもあってか、「誰が」の部分は弱い。話している時も、誰の発言かは、覚えきれなかった。「どんな発言か」ということの方が強く印象に残る。でも、きっと、それも心地よいのだと思う。実生活では、特に職場では、「誰の発言か」という方が重視されることが多いから。だから「哲学カフェ」では、「私の発言なんてどうせ」と思うこともなく、自由に発言することができる。色々な人の発言を、自分の中でくっつけたり分類したりして自分の考えを深めていくのは、深い部分での頭の体操のようで、とても面白い経験だった。
 結局、休憩を挟んで会が終わるまで途中退室せずに参加した。あっという間だった。終了後にまだ残って話している人達もいたけれど、私は疲れてしまって「二時間が限度」と思った。主催者の方が忙しいとかで、次回は秋頃になるということを聞いて、「そのくらいのペースがちょうどいいかも」と、その時は思ったけれど、一か月くらいたって、「早くまた参加したいなぁ」と思い出してしまっている。
 「哲学カフェ」は、最初に参加するのは勇気が必要だけれど、一度参加してみるとクセになるモノなのかもしれない。まだリアルで参加する勇気はないけれど。

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