見出し画像

コロナ俳句への序章とコールサックネット句会の始動

COVID-19=新型コロナウイルス感染症(以下便宜上コロナと呼ぶ)の世界的な流行が続いている。中国武漢市の都市封鎖、感染爆発したクルーズ船の国内入港、東京オリンピックの延期決定、緊急事態宣言の発令…、私がこの文章を「ステイホーム」の自宅で書いている今も、情況は刻一刻と変化している。ゴールデンウィークが明けた頃には「新しい生活様式」などという怪しげな標語が叫ばれている。感染症の前では富者も貧者も強者も弱者も皆平等であるというのは巧妙な嘘であり、実際はコロナ以前からあった社会の歪みがコロナによって顕現している。いわば、コロナの現在によってコロナ以前が逆照射されている。これから訪れるポストコロナ時代、全てを元に戻すことはできないが、かといって全てを刷新してしまうことも危険だ。

現時点でコロナは俳句に如何なる影響を与えたか。まず国の外出自粛要請により、俳人が季節に触れることを禁じられた。俳句を季の文芸とする伝統俳句作家にとっては特に致命的だ。さらに言えば、マスクの常用によって嗅覚を削がれた。そして俳人同士の交流の場である対面句会も禁じられた。
このような抑圧状態は、第二次世界大戦中や東日本大震災当時の俳句の情況との類似点と相違点はそれぞれあるだろう。が、今その判断をするのは時期尚早に思われる。

コロナの俳句

そこでまず、最近のインターネット・SNS上・受贈俳誌より、コロナの影響が表れた作品を取り上げてみたい。

校庭のがらんと春の嵐かな  松本てふこ
出歩かず夫婦よく食ひさくら時   〃
桜蕊降るよやましく外に出れば   〃
(2020.04.01 Webサイト「詩客」掲載「在宅」十句より)
http://shiika.sakura.ne.jp/works/haiku-works/2020-04-11-20708.html
鮫よぎるテレビ会議の背景を  神野 紗希
土舐める蜂為政者は紅茶飲み   〃
保育園休ませて子と剝くレタス   〃
(2020.04.15 神野紗希Twitter発表の十五句より)
https://twitter.com/kono_saki/status/1250338400055349249

松本氏の一句目は休校中の学校だろう。三句目、外出自粛の社会的抑圧の中で家の外に出る「やまし」さは、コロナ禍特有の感覚である。家の外に出て見た自然物「桜蘂」は作者の心のざらつきに適うものだった。神野氏の一句目、テレワーク化が進む企業活動での一場面であるが、背景に過る「鮫」は不安の象徴だ。テレビ会議の相手先に幻視している鮫ともとれるが、テレビ会議をしている自宅の画面の背後に鮫が過ぎたのかもしれない。二句目の優雅に紅茶を飲む為政者も画面越しだ。

雑踏に乳母車 ノブにウイルス  野ざらし延男
ウイルスの紙皿廻す地球の宴   〃
天国へとばすなウイルス清明祭   〃
(2020.05.01 俳句同人誌「天荒」66号 十二句より)
無症状エタノール漬けの朧月  大城さやか
咳一つ疑心暗鬼の目玉がギョロリ   〃
コロナ禍のデジタル画面蠅生まる   〃
(前掲「天荒」66号 十二句より)

野ざらし氏の二句目三句目は、ウイルスを地球規模で捉えており、いま大騒ぎしている人類への痛烈な風刺だ。「清明祭」は二十四節気の清明(春分と穀雨の間の時期)の頃に行われる沖縄のお墓参りでありお祝い行事である。ウイルス騒ぎを天国へ持ち込んではならないという先祖への恥の意識がある。

大城氏の一句目、朧月の霞を、無症状でいつウイルスが発病するかわからず、エタノール消毒するしかできない現代人の不安な心情に重ねた。三句目のデジタル画面で見ている蠅の誕生は、本物の命と言えるのだろうか、何もかもデジタル画面の中の出来事が現実と了解されていくことへの違和感も読み取れる。

右の作品は、これから生まれて来る無数のコロナ俳句の序章に過ぎないだろう。時事的な俳句を、一句としての独立性や歴史的普遍性の観点から批判することは容易い。しかし、俳句という小さな詩の器によって、スローガンひとつで画一的に統制されていこうとする個人が、その感性や思索を保っていけるかの一つの指標としても、コロナ俳句は読まれ続けていくべきだ。

コロナ以前の自論を逆照射する

次に、これまで私がこの俳句時評で書いてきた現代俳句への展望が、コロナ禍中、コロナ後の世界からどう見えるか、自己反省してみたい。
コールサック99号で私は、東日本大震災被災の俳人との関連で非常時の俳句について次のように書いた。

 作られた俳句の言葉が意味や感動を生み出すのではなく、俳句の言葉を作り出す行為自体が、俳人に「生きる力」を与える。非常時はそのことが顕著になる。
 また非常時においては、季感などの類型的な俳句の枠組みが崩れ、俳句の主体と客体、言葉と実体の距離がズレる。(略)世界と言葉の混沌状態だ。その時、私が生きる上で俳句とは何か、という根源的な問いが俳人一人一人へと投げ掛けられる。(2019・9)

コロナ禍で俳人が俳句を作ることによって「生きる力」を俳句から得られているかはわからない。「後から考えて、そのようなことが言える」ということなのかもしれない。

いま、それまでの日常が崩壊し、外出自粛の生活の中、先が見えない不安を覚え、無気力や絶望感に陥ったり、短絡的な救いや他者排斥に飛びつこうとする者もいるかもしれない。そのような精神状況の打破や、個人的な日常の精神の保持も、俳句によってなし得ることの一つではないだろうか。

また引用部後半の世界と言葉の混沌状態については、まさしく今回も当てはまるようだ。この混沌を真に自分事として受け止めた実感が言葉にされ、個々の実情によって異なるコロナ俳句が作られることは、現代文学としての俳句の未来を照らすことになるに違いない。

さて前述のとおり、コロナ禍により、人と人が接触し、感染するのを恐れて、全国の俳句会で対面句会が開かれていない。会場となる公共施設も閉鎖している。私の参加する定期的な句会では、二月二十三日が最後の対面句会であった。

対面句会が不開催となった代わりとして、誌上句会、ネット句会が行われている。誌上句会は、参加者から郵送で投句を受け付け、それを係が取りまとめ句稿を作成し、主宰者などの選者に選をしてもらい、その結果をまた参加者に郵送する。ややアナログな通信句会である。

ネット句会でも様々なやり方があるが、最近では無料ネット句会サービスがあり、投句、選句、選評、句会後の雑談掲示板が自動化され、かなり利便性が高いものもある。

コールサック98号で私は、句会を「中間領域」や「社会関係資本」として位置づけ、次のように書いた。

 社会関係資本の二つの基本型として、同質な者同士が結びつくボンディング(結束型)と、異質な者同士を結びつけるブリッジング(橋渡し型)という区別がある。ボンディングはメンバーの間の結束を強化するが、集団の規範に反する者に対しては村八分にする可能性もある。ブリッジングはメンバー間の結束は緩やかだが、異質な者同士の集まりなので、外部からの新鮮な情報が入りやすい。(略)これからの俳壇を考える上で、結社句会は、よりブリッジング的な要素を取り入れ、個人の多様性を生かす集団を作り上げる方が、個性の相乗効果によって、結果的に結社や俳壇全体の繁栄につながっていくと私は考える。(2019・6)

コロナの時代になり、対面句会が出来ずまた外出が不自由になり自然に触れ合うことも限られるようになった。ゆえに、実際に顔を合わせて話したり、触れ合うことの得難さを痛感している。その一方で、届かない他者への想像力や自分とは異なる人たちへの寛容性も求められているように思う。俳句が俳句である所以を追求しつつも、「ブリッジング」をいかに具体化できるかを考えた。

結論として、これは以前から温めていたことであるが、コールサック句会を始動することにした。今のコロナの情況も考慮し、また地方在住の作家も参加できるように、ネット句会を基本形態とする。コールサック句会は、結社と結社を、「伝統俳句」と「現代俳句」を、俳句と詩・短歌・小説などの俳句以外の文学を、俳句と社会を、「ブリッジ」する越境型句会である。

コールサック句会の基本理念・要項は次のようにする。

○超結社、越境型句会です。詩人や歌人や小説家、そのほか の表現者、初心者の方も大歓迎です。
○「有季定型」に固執せず、有季(季語有り)/無季(季語 無し)、定型/破調、旧かな/新かな、文語/口語などが 競演する多様な俳句の場です。
○「俳句」と、「俳句の読み」と、「句会(ネット、リアル、 etc…)」の実験場です。
○文芸誌「コールサック」と連動し、ネットと紙の相乗作用 の発揮を目指します。
○参加費、投句費などはありません。
○ネット句会を二か月に一度開催します。インターネットと メールを使用できることが必須となります。
○句会のご参加、新しい参加者のご紹介、ご質問等は、鈴木 光影(m.suzuki@coal-sack.com)までご連絡ください。
 今後、参加者の皆様のご意見をお聞きしながら俳句や詩の 交流の場として、改良していきます。コロナ禍収束後には リアル(対面)句会や吟行会も開催したいです。

今回の誌面告知に先立って、私の声掛けに賛同してくれた五名の作家たちと、五月九日に第一回のコールサック句会を開催した。その模様の一部、点が入った句を高得点順に掲載する。

逢えぬ夜に灯ひとつ冷蔵庫  綿帽子
マンションを獄舎と仰ぐ夏マスク  光影
芋虫の飛べる未来が羨まし  美幸
落つるかに昇る緑雨のエレベーター  光影
丑満や金星となる夏蜜柑  綿帽子
あの夏の氷菓のごとき蛍石  美幸
熟れて落ち路傍に臥するオレンジや  都望
日溜りの柔らかさ持ち牡丹揺る  忠文
光源なる若葉の放つ眩しさか  都望
褥瘡を揉みたる宵やカーネーション  綿帽子
そのチューリップの東が蒸発 波の中で  拓也
春疾風川面に棘を立たせしむ  忠文

〈高点三句への選評(一部)〉
 逢えないのはコロナ禍のせいか、それとももう遠くに行ってしまったのか。冷蔵庫が逢えぬ人を思う回想から一挙に日常へ戻し、寂しさが増していく。(都望)
 時事句としてわかりやすく、夏マスク、との表現が新鮮。獄舎の比喩も的確と思った。(綿帽子)
 題材を選ぶとき、自分は目の前のもの選んで、目の前の鳥が飛んでいるのが羨ましい、芋虫であれば、芋虫の今の状態を詠んでしまう。そうではなくて、目の前の芋虫が飛べるようになる「その未来」が羨ましい、という視点が良かった。(忠文)

俳句やその読解が良い意味で不揃いなのが新鮮で刺激的であった。そのような多様性や異質性を尊重し、楽しみ、自己相対化できるところが句会の一つの醍醐味であろう。コールサック社という総合文芸出版社だからこそできる懐の広い句会を目指したい。未来の俳句や句会のカタチを共に考え、実践していく仲間をお待ちしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?