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龍子の二つの絵と「俳句的ニヒリズム」 ―画家・川端龍子と俳句

本稿を執筆している二〇二二年の夏、東京では連日三〇度を超える猛暑が続いている。灼熱の太陽光を吸い込んだコンクリートの地面やビル群。少しでも涼を求めて、先日都内で開催中のある展覧会に赴いた。大田区立龍子記念館の「涼風を語る 龍子の描いた風景画を中心に」(会期 二〇二二年七月十六日~十月十日)である。

この龍子記念館、日本初の作家の手による個人美術館という。川端龍子という画家の、絵を観せることへのはっきりとした意識が窺える。また、建築物としても見どころが深く、上空から見ると、海洋生物のタツノオトシゴのような形をしている。「龍の落とし子」の気概から自らつけたものであるという雅号・龍子の遊び心とスケールの大きさが体験できる。

作品「炎庭想雪図」


今回、私はこの記念館を初めて訪れた。展示室に足を踏み入れるやいなや、まっさきに現れた作品「炎庭想雪図」(一九三五年)に驚きと感動を覚えた。まず、大きい。縦165センチ、横380センチの大作である。そして何といっても、描かれている自然物とその季節の関係が、私のような俳句的常識にとらわれた者には思いもしない展開を見せている。植物は、緑の濃い大ぶりな芭蕉の葉、山百合、鬼百合、桔梗など、日本の夏から秋にかけての草花である。そこに真っ白い雪が降り積もっている。まさに「炎庭想雪」。展覧会の企画「涼風を語る」に相応しい一品である。ちなみにこれは、中国唐代の詩人・王維が、雪の中の芭蕉を描いたという故事(謡曲「芭蕉」としても知られる)から着想を得ているという。

龍子は一九六三年の自作解説で「炎庭に雪を想ふて涼を追ふのもまた一興かも知れません。これを具象するのは画家の特権のようです」と述べている。
芭蕉の葉や百合の花の上に雪が積もることは日本の四季の現実では起りえない。それにも関わらず、雪の重みによる葉の傾き、茎のしなり、雪の白と夏の草花の鮮やかな色のコントラストは、現実のもののように精緻に描かれている。伝統俳句から言えば、季語が二つ入っていたり、季節が違う季語を一句に入れることは「ルール違反」とされる。現実を再構成して真実らしい「興」を生み出すことができるのを、龍子が「画家の特権」と言った自由な精神が羨ましく思った。

同時に、正反対のものを限定的な空間で取り合わせる手法や、古典を踏まえつつ自然物を先入観なく眺め、真に自由な創造力によって作品化する在り方に、俳句との交感も感じた。実際同展覧会には、龍子が四国巡礼でスケッチと共に詠んだ俳句の短冊が多く展示されていた。

炎庭想雪図(絵はがき)

龍子と俳句


画家・川端龍子(一八八五~一九六六年)と俳句との関係は深い。まず、俳人の川端茅舎(一八九七~一九四一年)の異母兄である。ちなみに茅舎と言えば、代表句〈金剛の露ひとつぶや石の上〉などで知られ、高浜虚子から句集の序に「花鳥諷詠真骨頂漢」と書かれるほど弟子として期待された「ホトトギス」の俳人。『川端茅舎全句集』(角川ソフィア文庫)の新解説で宇多喜代子氏は、「茅舎の句の「凄み」は、おおよそ現実とは遠いことであっても、たしかに自分には見えたのであると「断定」するところにあるのではないか」と解説しているが、掲句の「金剛の露」もその断定の好例だろう。茅舎は脊椎カリエスを発病後、十年間の闘病の上、四十五歳で早世する。その間龍子とは、画家・俳人という兄弟間で影響を与え合った。

また、龍子と高浜虚子との間には長い関係がある。二十代、雑誌などの挿絵画家として生計を立てていた龍子は、一九〇七年、国民新聞社に入社する。そこで翌年から文芸部長だったのが、高浜虚子である。新聞紙の編集者と挿絵画家として交流していたようだ。その後、茅舎の死をきっかけに、遺句集の発行などを通じてさらに関係が深くなった。龍子が立ち上げた新しい美術団体「青龍社」では、一九四六年から、毎月一回「青々句会」が、ホトトギス同人の深川正一郎の指導で行われた。一九四七年には龍子はホトトギス同人になっている。

その龍子は俳句について、趣味ではなく「スケッチの変形として表現するもの」という言葉を残している。また弟子の横山操は、「写意と写生の勉強になる」と聞かされていたという。俳句も句会も、絵の肥やしというわけだ。

会場芸術と花鳥諷詠


この龍子の画家としての評価として、良くも悪くも「会場芸術主義」という言葉に象徴される。西洋画家を経て日本画家に転身した龍子は、当初、岡倉天心が創設し横山大観が主要メンバーであった美術団体・日本美術院の会員であった。龍子は一九二九年にそれを脱退し自身の美術団体「青龍社」を新たに旗揚げするのだが、そのきっかけになったのが、龍子の絵を「会場芸術」と批判する批評家たちの声であった。周りの他の画家たちの作品に比べて格段に大きい龍子の絵は、会場ありきで奇をてらった演出だとして、作品以前の評価を下された。これに対して龍子は「自分の将来の理想として抱いてゐる所は、壁面芸術の方面であって、その意味に於いては寧ろ会場芸術といふ言葉に副ふことが出来れば私の以て満足とする所であるのだ」と「会場芸術」の言葉を逆手にとって反発している。

この「会場芸術」の反対語として想定されるのが「床の間芸術」だ。一部の金持ち、特権階級の豪邸の床の間に掛けられている絵画から、美術館、デパート、町の画廊へと芸術の展示される空間が時代と共に解放されたのである。現代に目を移せば、この美術観はさらに広がり、美術館を越えて、廃校や古民家、田んぼ等を舞台とした地方の里山アートなどへも展開していっている。いわば美術の大衆化の出発点は、龍子の会場芸術だったのである。

この「会場芸術主義」に照らして考えてみたいのが、俳句における「花鳥諷詠・客観写生」という虚子が強調したスローガンである。虚子はこの作句手順の単純化により、一部の限られた専門俳人から、一般大衆の手へと俳句を広めた。封建的な特権階級の時代から文化も大衆化される時代にあって、美術における龍子と俳句における虚子という二人の巨人の符号は興味深い。それぞれのジャンルに関わる人数を増やしプレイヤーを多様化した功績の一方、商業主義などとの批判の声も同時に起こっただろう。

作品「爆弾散華」


さてそんな大田区龍子記念館の正面には、龍子のアトリエと邸宅がいまも建っており、案内係の方と一緒に、当日私も見学することができた。門を入ってすぐ左手に小さな池がある。今は「爆弾散華の池」と呼ばれている。

一九四五年八月十三日、龍子宅は空襲により全壊に近い被害を受けた。これにより使用人が二人死亡したといい、龍子はこのとき畑の見張り小屋に逃げ、間一髪助かったという。この体験を元に描かれたのが作品「爆弾散華」(一九四五年)である。そして庭に空いた直径七メートルもの穴から水が湧き出てきて池になったのが、今の「爆弾散華の池」である。

「爆弾散華」は庭になっていた、トマト、南瓜、茄子といった夏野菜が爆撃・爆風によって破壊され、吹き飛ばされる一瞬が描かれている。爆発の激しい衝撃は金箔によって表現されている。爆風に靡く蔓や飛び散る野菜の断片などが微細に表され、題を見なければ美しいとすら感じる作品である。
この作品を観て、加藤楸邨がこれも戦争で自宅が罹災したとき詠んだ俳句〈火の奥に牡丹崩るるさまを見つ〉を想起した。

楸邨の句の牡丹も、龍子の絵の夏野菜も、作者たちは「崩るるさま」を、実際にその目で確と見たのか、定かではない。私は、少なくとも龍子は、見ていないのではないかと思った。

戦争による罹災より命からがら助かった経験をして、その後、心の中にふつふつと―爆弾散華の池のように―湧いて来た心象、それが、作品「爆弾散華」だったのではないか。表面的なリアリズムのみで戦争を再現しようと思ったら、きらびやかな金箔なぞ使わないだろう。どうしたら一般観衆の注目を集めて、戦争の真実を伝えることができるか。ここに類い稀なる戦略家でもある画家・龍子の手腕が発揮されているように思われる。俳句の用語「花鳥諷詠・客観写生」などでは到底収まらない想像力である。

爆弾散華(絵はがき)

龍子と虚子、それぞれの戦争


第二次大戦時、川端龍子は南洋諸島や中国大陸に従軍画家として積極的に赴き、精力的に作品を残している。しかし龍子の場合は、単に戦意高揚のための絵ではない。「同時代性」を追い求め、また現場主義を貫き、いかに大衆に向けた会場芸術を制作するかが龍子の目指すところであった。

美術史家の河田明久は「現代の社会を見つめ、社会に向けて作品を問おうとする龍子にとって、戦争美術への関与は必然であった。……敗戦直後、美術界における「戦犯」として一時龍子の名が取りざたされたが、美術の社会参加を掲げる龍子にとって、これはある意味正当な評価だったかもしれない。」(別冊太陽「画家と戦争」)という。

作品「香炉峰」(一九三九年)は、日の丸をつけた戦闘機を透かして、中国廬山の名峰・香炉峰を日本が制圧しているように表現した作品。会場芸術として観る者をあっと驚かせるような巨大さとその新鮮な構図には、戦争を主体的に画題としている龍子の姿勢がうかがえる。

戦後龍子の戦争との関わりの評価として、戦争協力者として評価が下った横山大観や藤田嗣治とは異なり、軍国主義とは一定の距離を置いたとされている。事実、青龍社は大戦中、大政翼賛会の列に加わらず、一九四五年六月の青龍展を内閣情報局の許可を得ずに開催している。

一方、俳壇の高浜虚子は、戦時、情報局の実質的な外郭団体であった日本文学報国会の俳句部門となった日本俳句作家協会の会長の役に就いていた。戦後、虚子が戦争を振り返った言葉を引用しよう。

〈大東亜戦争が、日本国民の思想の上に大きな影響を齎した事は争はれない事実であらう。 当時新聞記者のインタビューには必ず戦争の俳句に及ぼした影響を聞くのであつた。私はそれに対して斯う答へるのが常であつた。
 「俳句は何の影響も受けなかつた。」
 新聞記者は皆唖然として憐むやうな目つきをして私を見た。他の文芸は皆大いなる影響を受けた、と答へる中に、又、私以外の俳人は大概、大きな影響を受けた、と答へる中に、一人何の影響も受けなかつたと答へるのは、痴呆の如く見えたであらう。〉

『虚子俳話』

この虚子の言葉は、虚子個人の言葉として有名だが、同時に、俳句それ自体にとっても象徴的な言葉であろうと思う。

先程私は龍子の「会場芸術」と虚子の「花鳥諷詠」はその大衆化の一面において似ていると書いた。また二人には戦争協力の一端を担った共通点もある。しかし、それぞれの社会や時代に対する関わり方の質は、かけ離れているのである。それは「大衆化」の裏表だとも考えられる。

高浜虚子は「俳句は」という俳句を主語にして語るには、器の小さな人間である。しかし小さいがゆえに、大衆的、庶民的である。俳句を小さな枠に止めるがゆえに、その大衆性が担保される。虚子は、戦中、新興俳句弾圧事件で検挙、弾圧された俳人を、意図的に無かったもののように扱う。彼らを含めては、エリートによる俳句になってしまうから。それゆえに、「痴呆の如く」見られても、大衆は愚かな大衆のままでいいんだという自己欺瞞がある。この、俳句を外部からの視点も受け入れて内省する思索を拒絶した、虚子の根源的な俳句不信を、「俳句的ニヒリズム」と私は呼びたい。

一方の龍子にとっての大衆芸術としての絵画は、真に民衆を感化するような自由さがある。従軍画家として戦争に正面からぶつかっていった龍子は、その痛みや後悔を忘却せず戦後の血肉とした。

龍子は虚子の俳句の弟子であったが、真に学ぶべきは、虚子の方だったのではないか。終戦直ぐの一九四五年十月に日本橋三越で開催した青龍展で「爆弾散華」は発表された。「散華」には、若者の戦死の意味もにじむ。龍子は三男を戦争で亡くしてもいる。この絵を観る大衆一人一人と共に、戦争犠牲者を鎮魂しようとしたのかもしれない。俳句の境界を越えて、「俳句的ニヒリズム」を越えて、再びこれらの絵の前に佇みたい。

*参考 『現代日本の美術4 川端龍子』(集英社・1977)
    『生誕135年記念 川端龍子展』(アートワン・2020)

*「コールサック111号より」転載

コールサック111号

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