見出し画像

PS.ありがとう 6分の1話(全6話)

あらすじ

宮口祐輔は大阪本店から東京営業所への転勤になることが決まった。東京に本社を移すという話があがり、筆頭部長に選ばれたからだ。
もともと東京暮らしだった妻の瑤子は、この機会にいっしょに東京に行き、東京に自宅を持ちたいと考えた。しかし、今回の異動は単身赴任で話がすすんでいるようで、祐輔からは一緒には引っ越しができそうにないと言われる。
そんな中、瑤子は願い事をしながら感謝の手紙を書くと、願いが叶うという便せんを手に入れた。電子レンジやディズニーランドのチケットなど、その便せんを使って手に入れた。瑤子は東京行きも便せんの力を使おうか迷った。悩んでいる中、ママ友から祐輔が浮気しているのではないかという情報が入る。
祐輔の浮気現場を押させて、それをネタに東京行きを迫ろう、作戦は着実に進むのだった。

PS.ありがとう 
6分の1話
6分の2話
6分の3話
6分の4話
6分の5話
6分の6話(最終話)

PS.ありがとう 6分の1話

”艶やかな肌を保つなら、これ一つでオッケー。見てくださいこの方、年齢いくつだと思います?”

どうせ50代だろう、太ももをマッサージしながら瑤子はテレビに向かって悪態をついた。こんなのは30代とみせかけて、たいてい20歳くらいは上だ。そんなことを考えながらテーブルの隅に置いていた小瓶を手に取り蓋を開ける。

「これいい匂い」

鼻をぴくつかせながら一人つぶやく。買ってきたばかりのアロマエッセンシャルをオイルに溶かす。エッセンシャルオイルは自分へのご褒美だ。

瑤子は上場会社で事務の仕事をしている。ずっといるからお局様の部類には入るが、給料は決して多い方ではない。給料の中からほんの少しだけ自分に投資するのが働くモチベーションになっている

バラ色とは言わないが、こうして新しいエッシェンシャルオイルを購入してマッサージをする時間は瑤子にとって至極の時間となった。祐輔がやってくれるともっといいんだけど。ふくらはぎからひざに手を流しながらそんなことを考えているとテレビから歓声があがった。

「これで69歳なんです」

瑤子の手が一瞬止まった。メイクを落とすと、シミの付いた顔が現れた。

「まじ?」

とうとう30歳もサバ読める時代になった。30歳サバ読むなら私は5歳だ、まあなんて若いの。そんなことを考えているとリビングのドアが開いた。

「ねえおしっこ」

スマホを確認すると12時を過ぎていた。

「はいはい、一緒に行こうね」

5歳の美羽は毎晩この時間に目を覚ます。子供は2人いた。美羽は次女、長女の晴香は小学5年生だ。

ぼさぼさの髪の毛をかきあげながら美羽がトイレから出てくる。明らかに寝ぼけている。

「ママ、寝るよ」

「はいはい一緒に寝ようね」

そう言って床に入り横になると、ものの3分で寝てしまうから楽だ。

そろそろ祐輔が帰ってくるころだ。このご時世に終電で帰ってくるような仕事があるのだろうかと、つい疑ってしまうが、本当らしい。

祐輔は仕事がすべての人間だから、まさかとは思うが最近は本当に仕事だろうか、と思うことも少なくはない。仕事とは違う時間を持っているような気がした、あくまで勘でしかないが。

美羽が寝静まるのを確認した瑤子はキッチンに立ち祐輔の夕飯を温めなおす。遅い時間だから小皿分のおかずと茶碗半分ほどのご飯、豆腐くらいあれば祐輔は満足する。それ以上だとどうせ残すから、いつも自分達が食べた残り物を皿に盛るだけだ。

いつからこうなってしまったんだろう、思わずため息をついた。

結婚したばかりの頃は毎日とは言わないが週に2回から3回は早い時間に帰宅しいっしょに食卓を囲んだ。主人の帰りを待つ時間はときめくときもあったはずだ。茶碗にラップをかけながら、遠のいた時間を愛おしく思った。

冷えた気持ちのままソファに腰を降ろす。主人、旦那、夫、思ったより呼び名が少ないんだなと思う。

「ただいま」

「おかえりなさい」

きっと飲んでいるんだろうなあ、そう思いながらキッチンに向かう。

主人の顔色を窺っているわけではないが、つい気を使ってしまうのは、長年培われた習性なのだろうか、そして他の家庭もそんなことを探り合いながら生活をしているのだろうかと考えてしまう。

「ごはんにする?」

控えめに聞くと

「お風呂にする?それとも寝る?おい」祐輔が自分で逆を言って突っ込む。

つまらないジョークを自分で突っ込むのも祐輔の癖だ。そういう時は心地よい。すーっと体が楽になる。同時に家の中が明るくなった気がする。

「んーーーじゃあ食べて」

「わかりましたよ-」

そう言って素直にテーブルに着き、晩御飯を食べてくれるのはありがたい。そうしてくれるだけでも遅い時間に準備をしたかいがあると思う。

心もとない一人の時間を過ごすとマイナスなことばかりが浮かんでしまう。どうなんだろう自分の人生、そんなことまで考えているのに、いざ本人と話すと、思いは日差しの強い光に溶けてしまった氷のようだ。元の姿を見たことが遠い昔のことのように思える

そんなことを思いながら先週買ってきた雑誌を開く。

祐輔が転勤の話を持ってきたのは先週のことだ。大阪本社から東京支店に異動になった。

祐輔の勤めている会社はスポーツ用品を扱っているメーカーだが、最近需要が増し、売り上げは右肩上がりだ。

東京支店は以前からあるが、本社を東京に移転させようという話があり、営業部長をし、大阪ばかりではなく東京の営業部もまとめている祐輔に、いずれ本社となる東京で営業本部長として白羽の矢がたったのだった。

もともと祐輔は東京支店勤務で入社をした。瑤子との出会いは東京の学生時代の同僚の紹介だった。2人とも地方出身で東京の大学に進学し、東京で就職していた。ずっと東京で暮らしていくのだと思っていた。

祐輔の会社員としての人生は順調だった。同僚の中では一番早く役職がついた。比較的仕事ができるのだろう、いったん役職がつくととんとん拍子に部長にまで成り上がった。異例の抜擢だと本人は言っていた。

転機は祐輔が32歳、瑤子が30歳の時に訪れた。大阪本社勤務になったのだ。本社勤務は普通に考えれば栄転だ。

もう異動はないかもしれないから、そろそろ家でも買おうか、という時期だった。

本社勤めの役職者には社宅が提供される、それだけだ、大阪に家族そろって引っ越した理由は。ずっと東京で生活ができると思っていた瑤子には、大阪への異動は晴天の霹靂だった。5年辛抱した。そろそろ大阪で家を買おうか、そんな気持ちになったこともある。でも、また東京で暮らしたい、どうしてもあきらめられなかった。

だから今回の転勤話は瑤子にとって願ってもないチャンスだったのだ。

単身赴任でいいという祐輔の言葉とは半面、東京には一緒に行きたい、捨てきれない街への思いは大きくなるばかりだった。調子が悪くなった電子レンジを買い替えようかと思っていたが、引っ越すのならいらないか。

一緒に東京に行くなら子供たちの学校のことをも考えなければならない。色々なことが一気に押し寄せてくる。日を追うごとに胸の中に浮かれた気持ちと同時に重いものが蓄積されていく。

「私も東京に行けるかしら」

控えめに聞く。

「異動の多い会社だからさ、ずっといるとも限らないし、いいよ俺一人で、子供の学校のこともあるしさ、週一は帰ってくるから」

家の中で関西弁を使わないというのは2人のルールだった。大阪に来るときにこれだけはと約束したことだ。子供にも標準語でしゃべるようにしつけていた。

祐輔の返事は前回と変わらなかった。特に祐輔と週に一回会いたいというわけでもない。東京で家族水入らずで暮らしたいだけだ。その後また大阪に戻るというのであれば、その時に単身赴任すればいいじゃないか。一緒に行けないと思うと、カタログの表紙の電子レンジの写真が急に視界の中で大きくなった。

どうせ買うなら一番高いのにしよう。胸の中でぼんやりしていた気持ちが固まった気がした。

「本当にごめんなさい」

美里ちゃんのお母さんが会うなり頭を下げた。横で美里ちゃんが泣いている。

「大丈夫よ、美里ちゃんママ、大したことないみたいだから」

保育園から美羽がけがをしたと連絡があり、いつもより早い時間にお迎えに来ていた。

滑り台の上で順番待ちをしていた子が押し合いになって、端にいた美羽が押され、後ろ向きに滑り台を滑り落ちたらしい。滑り降りたところで変な形で手をついたために、手首を捻挫しているようだった。とりあえず応急措置はしてあるがすぐに病院にいかなければならなかった。

保育士の方も3人現場にいたものの、対応できずに申し訳なかったと深々と頭を下げられた。当の本人はなにごともなかったように普段と同じように笑っているから、けがは大したことはないのだと思う。

「今から病院に行って、連絡いれますから、あまり心配しないでね」

美里ちゃんママにそう言って、美羽といっしょに病院に向かった。

「ママ、みうね、痛くないよ。だから病院行きたくない」

病院が怖いのか、捻挫していない右手で瑤子のシャツを引っ張る。そんな態度に心に切なさが充満する。

「美羽、大したことないと思うけど、念のためにレントゲン撮るだけよ。痛くないから安心して」

子供に怪我や病気は付きものだとわかっていても、替わってやれればと胸が締め付けられるのはいつものことだ。

診断は軽い捻挫だった。

「3日くらいは腫れが続くでしょうけど、すぐに治ります。痛みもないみたいですから、安心してください」

ドクターの言葉に胸をなでおろす。

「良かったねたいしたことなくて」

「だから言ったでしょ、ママ、病院行かなくっていいって」

無邪気な子供の言葉に救われる。

「美羽ちゃんお手紙書いておこうか」

夕飯とお風呂を済ますと、瑤子は美羽と一緒に並んでテーブルに座った。子供用の便せんを広げ、美羽に色鉛筆を渡した。

「美羽ちゃん、けが大したことなかったよって、美里ちゃんにお手紙書こうか」

美羽はうん、と言って嬉しそうに絵を描き始めた。

瑤子も美里ちゃんのママあてに手紙を書いた。大したケガじゃなかったこと、美里ちゃんのせいじゃないこと、だからこれからも今まで同じように接してね、といったことなどだ。

「できた」

美羽が誇らしげに瑤子を見上げる。横からのぞき込む。便せんの上半分に3人の女の子が手をつないでいる絵が描かれていた。

「これはどういうことを書いたのかな」

あえて質問してみる。

「あのねえ、美羽と美里ちゃんと、もえちゃんで散歩しているところ」

「そうなのー、上手ねえ。これお手紙にして美里ちゃんに渡そうね」

そう言うと美羽はとても嬉しそうな表情を見せた。

瑤子は手紙を折ろうとして、ふと手を止めた。もう一度手紙を開く。

“PS.心配してくれてありがとう”

文章の最後にそう付け加えて、美羽の絵といっしょに折り畳み封筒に入れた。“ありがとう”と書きながら心が躍った。感謝の気持ちを表すということはとても気持ちのいいものだと改めて実感した。

封を閉じているとレンジのカタログが目に入った。手紙を書いた充足感からなのか、胸に引っかかっていたものがすっと落ちた気がした。

手紙の効果は思っていた以上だった。美里ちゃんママはとても安心したようで、以前にも増して話しかけてくるようになった。

「美羽ちゃんママ、手紙ありがとうね。あれもらってとても安心したの、これからも仲良くしてね、美羽ちゃん」

美里ちゃんママは美羽の手をとって話しかけてくれた。保育園の親関係はいつ何がおこるかわからない。だからこういう仲間はいないよりいる方がいい。長女が保育園を経験している分、知恵がついていた。

美里ちゃんママとパパは祐輔とは会社は違うものの、東京からの転勤族で瑤子とよく話があった。東京が良かったね、2人の話題は遠くで活気立つ大都会の話ばかりだ。

「これお礼と言ったらなんだけど、外れはないみたいだから」

「いいのに、なんともなかったんだから」

「いいのよ、手紙がとてもうれしかったの、大したものじゃないけど、受け取ってね」

美里ちゃんママが白い封筒を美羽に握らせた。

弾む気持ちで保育園を後にした。5月の風が顔をなでていった。緑の木々の葉が光に反射している。空の青さが今の自分を映している。そう思った。

「美羽ちゃんママ」

心地よい風の中で、レイナちゃんママが建物の陰に身を隠すようにして立っていた。長い髪が風に吹かれ、顔に巻きついているようだ。恐怖映画のワンシーンが浮かび、何かが心臓を叩く。

「レイナちゃんママ?」

レイナちゃんママはつかつかと歩いてきた。何かにとらわれているような目に、さらに脈が速くなる。

「ちょっと話せへん?」

「ええけど、どないしたん」

自分の発した関西弁のイントネーションで少し落ち着いた気がした。

レイナちゃんママの前ではつい関西弁になってしまう。関西人が聞いたらきっと石でもなげつけられそうな、とってつけたような関西弁だ。

公園に入り、子供が見えるように砂場の近くのベンチに腰掛けた。美羽とレイナちゃんが砂場に向かって駆けていくと、小石をついばんでいた鳩が一斉に飛び立った。砂場で2人仲良くしゃがむ姿に心が和む。

「あのな、余計なお世話かもしれんけど、私がそうやったから」

レイナちゃんママは足元を見ながら話している。踵の後が土に丸く輪を作っている。頑張って話そうという雰囲気を感じた。

「ええよ、何でも言って、ようわからんけど、ちゃんと受け止める気持ちはあるからさあ」

レイナちゃんママは普段からおとなしく、あまり多くのママと仲良く話す方ではないが、瑤子には話しやすいのか、顔を合わせると話しかけてくれる存在だった。

その姿は花によってくるミツバチのように、子供のような可愛らしさをまとっていた。だが、この日の様子は少し違った。

「あのな、私レストランで働いとるやろ。だからなよく見かけるんよ、不倫しているなあって人たち」

そう言って瑤子の目を見る。瑤子はなんとなくその後の話が予測できた。祐輔さんが不倫?でもまさか。まさかが通用しないのが現実だ、そんな冷静なことも頭をよぎる。ここはなんでも受け入れよう、そう決心して聞いた。

「お宅のご主人やけどお、この前女の人と来ててな、結構深刻な話をしよってん。私もマスクして接客しているから私ってわからへんかったと思うけど、ほらお客さんはマスクとらんとご飯食べれへんやろ、だからこっちはわかるんよ」

まあ、それくらいは説明されなくてもわかる。驚くというより、やっぱり、という気持ちの方が大きかった。というより自分の願いをかなえる材料になるかとも思った。そんな腹黒いことが一瞬で浮かぶ自分も悪だな、と思いつつ。

「ありがとう教えてくれて」

「いやいや、なんかさ、私さあ、夫が浮気したのが原因でわかれたからな、同じ思いしてほしくないねん。ほんと今更やけど、子供が可哀そうやで。ちゃんと話をしてな、離婚だけはしたらあかんで」

きっとそれは本音だろう。自分のことを思って言いたくないことを言ってくれたのだ、と瑤子は思った。

「ほんまにありがとう、その気持ち大事にするから、また何かあったら教えてな」

夫が不倫をしているかもしれないということを聞かせれているのに、なぜか心の中は清々しい思いでいっぱいだった。東京に行ける理由ができた、そっちの方が大きかった。

「美羽、それなーに?」

肩から外したポーチのファスナーを開けると、宝物でも取り出すように白い紙を取り出した。子供っていいなあと思える瞬間だ。

「これねえ、美里ちゃんママからもらったの、見て」

手よりも数倍大きな白い封筒を、表彰状のように持ち、落とさないように手渡しで渡してくれた。

「わあ、何が入っているのかなあ」

ハサミで丁寧に端を切る。柄にもなくワクワクする瞬間だ。

封を切って中から出てきたのは、商店街の抽選券だった。それを見て思い出した。

「外れはないみたいだから」

渡してくれた時の美里ちゃんママの笑顔を思い出した。美里ちゃんママが手紙のお礼にとくれたものだ。

「ママ、これなあに」

「これはね抽選券というくじなの、くじ引きわかるのね?」

じっと抽選権を眺めると顔を上げた。

「わかるよ、何が当たるの?」

「さあなにかなあ、当たってのお楽しみだね」

「いつわかるの?」

嬉しそうに聞いてくる。

「えっとね、ああこれね北町商店街にいけばわかるね、明日行ってみようか」

「わあい、美里ちゃんに言わないと」

とてもうれしそうだ。

「そうね、お礼を言っといて」

「うんわかったー」

美羽が寝た後、祐輔の晩御飯の準備をし、ノートパソコンを立ち上げる。ブーンという音がする。パソコンに向かうとひどく肩が凝っている気がする。画面が開くまでの間、両肩を上げ下げしてほぐした。画面が落ち着くのを待ちネットを開いた。

最近、東京の不動産を検索して部屋の間取りを見るのが日課になっていた。港区、新宿区あたりの物件を見ていた。部屋の間取りや、近隣の風景。若いころに生活をしていた空間が再び目の前に広がる。夢気分で画面にかじりつく。

祐輔が不倫をしているかもしれないという話を聞いてから、東京行きの話がかなり近付いた気がしている。かといって理由があるわけでもない。

「なんて言おうか、不倫してるって聞いたわよ、許すから東京行っていいでしょ?」

口に出してみたが、おやつを盗み食いした子供の言い訳よりひどい気がした。

目を閉じる。暗闇の中から漏れてくる小さな光に向かって歩いていくようだ。その光はいつになったら大きくなるのか分からない。

とても細い希望の糸だが、つなぎとめないわけにはいかない。

レイナちゃんママが教えてくれたおかげで自分の夢が明確になった。そう思った瞬間瑤子はペンを手にしていた。

少し前に美里ちゃんママに手紙を書いた時の快感にも似た感触をもう一度味わいと思った。

“今日は色々教えてくれて、ほんとにありがたかったわ。いつもちょっとしか話さへんけどまた話してな。ずっと友達でいてください。PS.ありがとう”

本当に短い手紙だったが、最後にありがとうと書く瞬間、体を電気が走ったような気がした。ありがとう、なんていい言葉だろう。

「これからも感謝せえへんとな」

心のコップから喜びみたいなものがあふれ出てくる。明日も頑張ろう。そう思うと大きなあくびが出た。

背中を疲労感がべったりと覆っている気がした。

「たまにはいいだろう」

祐輔が帰宅する前に床に就いた。

PS.ありがとう 6分の2話へつづく

#創作大賞2023 #恋愛小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?