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殺人の夜 前編 読了3分

 やばいな、危うく死ぬところだった。
 御徒町もこみち郎は、脇腹を押さえて立ち上がった。腕を見ると血まみれだ。倒れていた床にはどっぷりと流れ出た血液がたまって、さながら殺人現場のようだ。

 気が付いた時はうつぶせになっていたが、仰向けに倒れたのだろう、背中側も胸側も、床に流れ出た血液が付着したようで、Tシャツ全体も赤い血で真っ赤に染まっていた。
 しかし、さくら子の野郎、ここまでしなくてもいいじゃないか。例え積年の恨みが蓄積されていたとしてもだよ、痛えなあ。

 五年前に離婚した神田川さくら子が連絡をとってきたのは、先週のことだった。話があるというので、食事でもと言ったのだが、部屋で話をしたいと言ってきたので部屋に招き入れた。それが罠だとはその時は一ミリも想像していなかった。

 いっしょに暮していた三年間、彼女には悪いことをした。仕事が過渡期にあったとはいえ、あまり家に帰らずさくら子を一人にすることが多かった。専業主婦をさせて、人より多めのお金を渡していたが、結婚して夫婦水入らずで食事をしたことなんか、記憶の限り数回しかない。会社の経営が思わしくなくなるにつれて、さくら子に渡すお金も減っていった。

 おまけに「お前は重すぎる、仕事に集中したい」という理由で離婚を申し出たのだから、そりゃ恨み節の一つや二つ口にしてもおかしくはない、しかし、包丁で刺すことはないだろう。
 御徒町もこみち郎がキッチンに立っているところを、神田川さくら子が後ろから包丁で一突きしたのだった。驚いた反動で、御徒町もこみち郎は油が付着していた床で足を滑らせてしまい、倒れ、頭を強打し、気を失ってしまった。

 背中の胸のあたりを狙っていたのだろうが、薄暗いキッチンで神田川さくら子が手にした包丁は体をそれ、肋骨の外側の皮膚をかすっただけだった。日頃から血圧が高いからか、思いのほか出血し、血液が床に流れ出していた。これじゃ死んだと思われてもしかたがないだろう。
 ご丁寧に照明を全て消していきやがった。

 御徒町もこみち郎は立ち上がり、灯りを付けないまま、キッチンの水道の水で手に着いた血を流していると、玄関のドアが開く音がした。さくら子が帰ってきたのか?元気な姿を見せて驚かせてやろうか。

 御徒町もこみち郎はキッチン脇の室内サウンドのスイッチを入れた。静かな音楽がキッチンに流れる。
「驚くかな?」
 ミシ、ミシ、足音が近づいてくる。御徒町もこみち郎が振り向いた瞬間だった、硬いものが御徒町もこみち郎の頭部を強打していた。今度は自分が流した血液に足を滑らせて倒れてしまった。

 一瞬気を失ったが、横になったまま御徒町もこみち郎が頭の中を整理しようとしていると
 殴った男が「わあー、どうしよう」と大声を上げている。
 やっとの思いで目を開けると、殴ってきた男の顔が、窓から入る外の明かりで照らされた。男は御徒町もこみち郎が経営する会社で営業を担当している池袋いちろう太だった。

「あああ、どうしようやっちまったよ、やっちまった、あああどうしよう」
と驚きの声を上げている。死んだと思っているのか?
“いや、俺は生きているぞ”と言おうとしたところで、御徒町もこみち郎は気を失ってしまった。
 意識を取り戻すと、またしても血液に体が浸っていた。とりあえず、この血を掃除しないと。そう思って頭をフラフラさせながら立ち上がる。

 そういえば、と御徒町もこみち郎は何かを思い出したようにクロゼットに入ると、数種類のスプレー缶を持って出てきた。先日アメリカで発売された新商品だ。血痕などの原子レベルの汚れやニオイまで消す薬品があることを思い出したのだった。商品名は「イレイザー」、日本語で消しゴムとは良く命名したものだ、と仕入れる時に感心したものだ。相当な効果があるらしく、これで床が変色したり、ニオイが残ったりすることがないだろう。ひょっとしたら血液反応すら出ないのではないだろうか。

 掃除を済ませると、ニオイが残らないうちにと思い、御徒町もこみち郎は拭き取った雑巾のゴミを出しに、一階のゴミ捨て場に降りた。ゴミを捨て空を見上げると、澄んだ暗闇の中に白い月が明々と輝いている。

「気持ちいいなあ、こんな日に俺は死ぬのか」
 殴られたあたりが痛む。手を当てると頭部からも出血していた。Tシャツを見ると、血液に染まったTシャツがまるで赤いTシャツを着ているようだ。これは人に見られるとまずいな。

 早く帰って着替えないと、そう思って引き返そうとした時だった。
 キキキー、というブレーキ音と同時に御徒町もこみち郎の体が宙に浮いたのだった。ドスンという音をたて、御徒町もこみち郎がアスファルトの上に落ちる。

 それでも意識のあった御徒町もこみち郎が目を開けると、車から若い男性が降りてきた。立ち上がろうとするが、体が動かない。
「これ、死んでるな」
 案外冷静に、若い男はそう口にすると、急いで運転席に戻り車を発進させたのだった。

 フラフラしながらやっとの思いで、部屋に戻り鏡を見ると、Tシャツが破れ、アスファルトの色が付着したのか、血だらけのTシャツの上に黒く引きずったような跡もある。
 こりゃ事故死した体にみえるわな、シャワーを浴びて体に付着した血液を落とすと、風呂の中も先ほどのイレイザーで掃除した。もう一度下に降りて、血液が付いたTシャツをゴミで捨てると、念のために車ではねられたアスファルトもイレイザーを当てておいた。まるで清掃のおじさんだ。

殺人の夜 後編へつづく

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