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日記 第9話 (読了3分)

前回までのあらすじ
結婚生活に終止符を打ち、仕事も長期休暇に入った西澤祐樹は一人でいることに不安をおぼえ、結婚相談所に出向いた。そこで祐樹は1週間日記を書いてくるよう指示される。

日記 第9話

「火曜日、昼ドラを見た。暇だ、早く仕事がしたい、そう思ってテレビと向かい合った。主役の刑事にたてついた女性刑事がきれいだった。熟女」

また三上さんが上目遣いに祐樹を見る。

「熟女ねーー」

「いいえ、熟女が好きなんじゃないんですよ、たまたま、そこが気になっただけです」

「それが愛よ、ラブ」

そう言って三上さんは左目でインクした。

「こっちには愛はないし」

三上さんが笑いながら聞いている。

「そうなのかなあ、一度年上の人とお付き合いするのもいいかもよ」

三上さんは笑っているが、目の奥が笑っていないのがわかる。

「でも別れた妻は2歳下でした」

「だからいいんじゃない?今まで年上の人と付き合った経験はあるの?」

首をかしげて三上さんが祐樹の顔を面白そうに見つめる。祐樹が困っているのを楽しんでいるかのようだ。

「ありません」

圧力に押されたように返事をした。

「もう年下の女性の裸を見ても何もなんとも思わないんじゃない?」

吉田公子の顔が浮かんだ。緊急搬送した夜、救急車の中で彼女のパンツを下げ秘部を見たが、確かに何も思わなかった。そこまで考えてかぶりを振った。いや仕事だろ、裸を見るたびに興奮していては体がもたない。

「仕事ですからね」

「じゃあ見てみる?」

三上さんが両手でシャツの襟を広げた。一瞬心臓が鳴る。

「そう言われるとドキッとしますね」

「熟女はもっとドキドキするわよ」

自分はいじめられているのだろうか、三上さんが笑顔を崩すことはない。

「じゃあ決まりね。質問は?」

「ないです」

すぐに出てきた。他に言葉が浮かばなかった。

「この人がいいわね、どうかしら」

三上さんがノートパソコンを回転させてこちらに向ける。

モニターの中でショートカットの女性が笑っている。優しそうな目に透き通った肌、それでありながら芯の強そうな目、申し分ないルックスだ。

「どう?45歳よ」

「45歳でこんなにきれいなんですか?」

「そうよ最近の熟女はそこらへんの若い子と比較しても引けをとらないわよ」

45歳というと自分より15歳も上だ。自分が45歳の時には還暦だ。そう思うといくら奇麗な人でも、どうしてもブレーキがかかってしまう。赤いちゃんちゃんこの女性が頭に浮かんだ。女性の顔がいつの間にか千沙の顔になっていた。

だめだだめだ、かぶりを振って三上さんに視線を戻した。

「だめなら断ればいいわよ、これくらいの年代の女性ならたくさんいらっしゃるから」

断った後またこの年代と会うのもつらいと思った。

三上さんが微笑みを投げかけてくる。

「一度くらいなら」

「なあに?一度くらいなら」

「会ってもいいかと」

「よし決まりね。撤回はなしだから」

とうとう負けたと思った。

「じゃあセッティングしておくわ、決まったら連絡いれるわね」

その後、契約書みたいな書類にサインをして相談所を後にした。三上さんは出口まで見送りに来てくれた。背筋を伸ばしてお辞儀をした姿がとても凛々しかった。

オフィスビルを出て東京駅の前に出た。あっという間に日は沈んでいた。時計を見ると6時半をすぎている。来るときは降っていなかった雨が景色を濡らしている。

レンガ色の東京駅が暗闇の中で照明の淡い光を受けて、荘厳な姿を漂わせている。路面は薄い膜でもはったように、雨で濡れている。正面から見た東京駅は濡れた路面に反射し風の動きに合わせ揺れている。東京駅が水に浮かんでいるようだ。光を含んだ雨が見えるものすべてを輝かせていた。

会社からメールが来ていた。川崎さんが降格になり、リーダー職ははく奪されたとのことだ。彼のパワハラに悩んでいたのは祐樹だけではなかった。現場としては慢性的な人手不足だから本当はすぐにでも復帰してほしいが、署長権限の休暇なのでゆっくり休んでください、といったような複雑な気持ちを含んだ内容だった。

転職活動でもしようかな、と思っていたところなので、復帰路線がいまだ強く残されている事実に肩の力が抜けた。気が付くと3カ月もらった休暇もすでに1ヵ月が過ぎていた。

一人リビングでテレビを見ながらビールを飲んでいると無性に寂しくなる。ラインの通知が来るたびに千沙からではないかと期待に胸が高なるが、千沙のラインのアイコンは少しずつ下にずれていくだけだった。アイコンの笑顔に胸がキュッと締め付けられた。

隣の部屋を見ると千沙の残した洋服がかけられている。照明を消すと人が立っているように見えるので、この日は部屋の照明をつけたまま布団に入った。

カーテンを開けるとまぶしい光がどっと押し寄せてきた。体に生気が蘇るようだ。熟女を紹介してくれることになってからなんとなく体調が良くなった気がする。窓を開けると涼しい風が吹き込んできた。思い切り初夏の空気を吸い込んだ。陽気に誘われて、久しぶりに買い物にでも行ってみようかと思った。

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