ウィルス殺傷キット 前編(読了3分)全2話
プシュー、入り口をくぐる際に自動ドアの両側から、ミストが勢いよく噴き出た。ただの消毒液だと思うが、体全体に絡みついてくる。SF映画のワンシーンのようだ。
須崎雄一郎がカンク社を訪れたのは、新しいキャロウィルス対策キットの取材のためだった。
2020年、世界的にキャロウィルスが蔓延し、感染者が全世界で1億人を超えていた。死者はその一パーセントの100万人にも上り、6月になっても未だ収束のきざしは見えずにいた。
一刻も早いキャロウィルスのワクチンの開発が待ち望まれていたが、ここにきて、日本国内でウィルス研究の先端を行く2つの企業が、キャロウィルスを殺菌するキットを開発し話題になっていた。その2社というのがカンク社とウルトラバイオレット社だ。
雄一郎は大手広告代理店の依頼で新しいキットの取材のために2社を訪れることになった。
最初に訪問したのはカンク社だ。
通してもらった部屋の中央には会議用のデスクが設置され、壁には大きなモニターがはめ込まれていた。学校の理科室みたいな部屋を想像していた雄一郎は、白い色で統一されたデスクや壁が、随分とスマートな印象で、研究者もビジネスライクになったものだと感じていた。
白衣を着た男女がモニターの前で話をしている。
「あ、そちらの席にどうぞ」
雄一郎に気が付いた白衣の女性が、振り返り雄一郎を端の椅子へ促した。テーブルの脇に白い椅子が3脚並んでいる。
白衣や防護服を着ると思っていたが、入り口でミストを浴びただけで、何かを装着することはなかった。武器もないまま戦場に立ったような感覚で、雄一郎は不安な気持ちのまま腰を下ろした。
「えーっと、今日は新しい殺菌キットの取材でしたね」
女性の方が声をかける。男性は頭を下げて部屋を出て行った。この女性がリーダーなのだろう。
「ええ、そうです。よろしいでしょうか?この時間にアポイントをいただいていたんですが」
雄一郎は立ちあがって丁寧に頭を下げた。
「聞いてます、小宮山美佐と申します。早速ですがこちらへきていただけますか」
小宮山美佐という女性は白衣を着ていたが、マスクをしていなかった。この人は他の人にもこのような冷ややかな対応をするのだろうか、小宮山からはSっ気の匂いがプンプン漂っていた。事務的な対応が、吊り上がった目つきに一層クールなイメージを与えていた。
雄一郎はMではないが、経験上ドSを見抜くことができるという自負があった。今まさに目の前にいる女性はドS上級者だと感じた。
この研究所はキャロウィルス感染の心配さえない場所なのか、それともこの女性はすでに感染し抗体を持っているのだろうか。
「こちらです」
小宮山が促した方を見ると、大きなガラスの部屋に赤いミスト状のものがふわふわ浮いていた。
「なんでしょう、あの赤いふわふわした雲のようなものは」
「あれがキャロウィルスです、実際には色は見えませんが、実験用に色をつけています」
小宮山はそれがどうした、みたいな目でじっと雄一郎を見ている。雄一郎は目を見開いてガラスに囲まれた部屋の中を覗き込んだ。無機質なガラスに包まれ、空間を赤い霧状のようなものが漂っている様子は、昔映画で見たガス部屋のようで怖くなった。
「どうぞ、こちらへ」
ガラスの部屋の入口は自動扉になっていて、小宮山が近づくと扉は両脇へ開き二人を招き入れた。入り口でまたミストを浴びた。
「どうぞって、これキャロウィルスじゃないんですか」
「大丈夫ですから」
ちょっと怒ったような声でそう言って小宮山が室内に入ると、フワフワしていた赤いミストは一瞬浮いたようにみえたが、パラパラと散るようにしていつの間にか消えてなくなった。
「さあ、こっちへ」
半ば強引に腕を引かれて、雄一郎がキャロウィルスの雲に頭を突っ込んだ。すると、また同じように赤い雲が、バラバラに散るように消えてしまった。
「これは、どういうことなのでしょうか」
雄一郎がおそるおそる聞いた。
「じゃあ戻って説明しましょう」
そう言って部屋を出ると、モニターを使って小宮山は説明を始めた。
「研究で、キャロウィルスは体内に入らない状態だととても弱い、ということがわかったんです。例えばこれ」
そう言って、小宮山は目の前のテーブルに置いてあるスプレーを手に持った。
「これは、ただの空気清浄機です、多少の抗菌剤が含まれていますが、これだけで空気中のキャロウィルスを殺菌できることが、研究でわかりました、キャロウィルスは寿命が長く、何もしなければ数日間は生き続けますし、体内に入ると人体を重篤化させ、死に至らせることができるとても怖いウィルスです。しかし、こうやって攻撃をすればすぐに死にます」
雄一郎はメモを取る手を早める。同時に許可を得てテープを回していた。
「今ミストのスプレーを浴びたのはわかりますよね、今、須崎さんの体はミストのバリヤで覆われています。この状態であればキャロウィルスが近づいてきてもキャロウィルスの方がやられてしまいます、キャロウィルスは人の体内に入れば非常に高い攻撃能力を発揮しますが、防衛能力は極めて低い。そこをつくんです」
「これは、すごい発見ですね」
感心したように雄一郎がメモを走らせる。
「でも、弱点があります」
小宮山はそう言うと同時に、困ったような目をした。
「弱点?」
この手のタイプの女性はちょっと困った顔をしても、気を抜いたらこちらがやられてしまう。
「はい、このバリヤは約十分しか持ちません、だから十分もすると体を覆っていたバリヤは消えてなくなります」
じゃあ、もうそろそろ自分の周りのバリヤは消えているじゃないか。危なかった。
「課題は解消できそうでしょうか」
「はい、新しいバリヤがこちらです」
「これは?どういう仕組みなんでしょう」
「これは、匂いでバリヤを作る、というものです、これなら10時間以上は持ちます」
じゃあ、そっちを先に見せてくれよ、と思ったが黙っていた。もしドSならその言葉をきっかけに攻撃態勢に入るだろう。
「では、そちらが市販されるのでしょうか」
雄一郎はなるべくSっ気に火を付けないように会話を続けた。
「はい、動物の体液から作っていますので、多少の生臭さは我慢が必要ですが、刺身を食べる民族ですから、これくらいは大丈夫です、使い捨てのスプレー缶タイプにして販売する予定です」
一通りの説明を聞き、雄一郎は研究所を後にした、握手はしなかった。ソーシャルディスタンスだ。
雄一郎にはもう一ヵ所行くところがあった。ウルトラバイオレット社だ。ウルトラバイオレット社は、カンク社に対抗してできた会社だ。後発ながらもネット広告などをうまく使い、マーケティングは成功していた。
ウィルス殺傷キット 後編へ続く
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