PS.ありがとう 最終話

そう言うと、祐輔がはしをとめて振り向いた。一瞬目が合った。何か言おうとしているようにも見えたが、祐輔はすぐに画面に目を戻した。自分がとても嫌なことを言っているのはわかるが、これくらいは言ってもいいだろう。

祐輔が東京に行っている間、自分は成田雄二と会う、何が起きるのかはわからない。気持ちは晴らしたい。

祐輔が帰宅したらすぐに東京行きを打診しよう、それが最後だ。その時にあのレストランで撮った浮気現場の映像を見せて、東京行きを認めさせる。祐輔のお遊びはそこでジエンドだ。

いや、その後、また復活するかもしれないが、そんなことは後で心配すればいい。とりあえず東京行きの切符を手にいれることが先決だ。

成田雄二、どことなく若い時の祐輔みたいな雰囲気だと思った。人の好みはそう簡単に変えられるものではないのかもしれない。

何となく気持ちが落ち着き、その日は久しぶりに深い眠りについた。

人が自然に呼吸をしているように、祐輔の出発はいたって自然だった。

「いってらっしゃい、誕生日に祐輔がいなくて寂しいけど、帰ってきたらサービスしてもらうからね」

「もちのろんよ」

相変わらずジョークが古い。

「バッグ以上のものを期待しているからね」

「りょーかい」

敬礼の恰好をして祐輔が笑った。その姿を見て瑤子の心がざわついた。本当はこの瞬間が一番幸せなはずなのに、目の前の幸せをひとつ失ったと思った。

「じゃあ存分に楽しんできてね」

「うん、じゃあいってきます」

その日は成田雄二のことで頭がいっぱいだった。

誕生日の目覚めは良かった。瑤子は36歳になった、成田雄二とは8歳差になる。

洗面所で鏡に向かう。目じりのしわが昨日より増えている気がする。指で修正する。すぐに元に戻った。思わず噴き出した。

「おばさんになったなあ、こんなんでいいの?ゆうじ君」

独りごちてみた。

いよいよ勝負だ。成田雄二と楽しんだ先に祐輔との戦いが待っている。これで東京行きを決める。成田雄二には多少申し訳ないとも思うが、きっと1回きりだ。続ける気はないし、ただの気晴らしだ。お互いその方がいい。

瑤子は待ち合わせ時間の10分前には店に入った。

祐輔がこの時間あの女といっしょに東京の旅を楽しんでいると思うと胃液が逆流しそうだった。

カフェの窓から外を眺めていると、歩いてきた雄二が瑤子に気が付き窓の外から手を振った。瑤子も振り返す。すっかり恋人気分だ。

しばらくコーヒーを飲みながら話をした。

雄二は幼いころに父を亡くし、ずっと母子家庭だということを教えてくれた。母親は中小企業の事務をし、雄二はライターとして仕事をしている、父が残した持ち家で二人で暮らすには十分な収入だということも。

そして、最近母親が新しい父親と名乗る人物を連れてきたことも。

「いいじゃん、新しいお父さんができて」

「それがそうでもないんです。顔を合わせても挨拶もそこそこで、なんていうか、母親が無理やり連れてきた高校生みたいで」

思わず笑いそうになったが、雄二がまじめな顔をしていたので我慢した。

「そうなんだ、じゃあ弟ができたみたいでいいんじゃない」

「そう思えれば楽なんですけどね、母親とハグしているところなんか見ると、なんか複雑で」

困ったような顔で雄二が愚痴る。困ったような顔もかわいい。

かわいいだなんて、雄二はそんなふうに思われているなんて一ミリも思っていないだろう。雄二の話がすすむほど、瑤子の頭の中は遠くを周回しているような気がする。

「雄二さん、シャンパンが美味しいお店があるからそっちにいどうしませんか」

「ああ、シャンパン、飲みたいです」

2人して店を移動した。レイナちゃんママから教えてもらった店に行くためだ。移動中に祐輔から電話が入っていたが無視をした。これくらいはいいだろう、どうせ彼も女と一緒だ。

シャンパンとシラスピザが出てくると、雄二が驚いたような顔をした。

「おいしそう」

その様子を見て瑤子の胸がきゅっと締まる。

「あ、あのー誕生日おめでとうございます」

グラスのシャンパンがなくなると同時に雄二が大きな紙袋をテーブルの横から手渡した。バッグとは違う荷物を持っていたから、もしかして、と思っていたがやはりそうだった。

「まあうれしい、開けていい?」

「もちろん」

袋を開けるとコーチのバッグが顔を出した。

「わあ」

瑤子は「思わず大声を出した。

「そんなに喜んでもらえて」

驚いたのは、去年、祐輔がプレゼントしてくれたバッグの色違いだったからだ。やはり祐輔と似ている、どこまで似ているのだろう。根拠のない不安が灰色になって心の中で広がっていた。

レストランを出て歩いている間に瑤子は2回雄二とキスをした。雄二の体に腕を回す。

「場所変えましょう」

瑤子が思い切って誘ってみた。ここで場所を変えるというのは大人の関係を持つことを意味している。

「あの、お子さんは」

「知り合いのお母さんに預けてるし、終電の時間位に引き取りに行くっていってるから」

そう言いながらまたキスをした。ホテルの受付でまた祐輔から電話が入った。思い切って出てみたが同時に切れた。折り返しはしなかった。

部屋に入ると瑤子は先にシャワーを浴びた。胸を自分で触る。乳首が元気よく顔を上げた。石鹸を泡立てて体の色々な部分を触る。体中が思いっきり反応している。結婚して初めて他の男の人と過ごす2人きりの時間。自分はこのまま雄二に抱かれるのだろう。

バスタオル一枚を巻いてベッドに入る。

「じゃあ僕もシャワーを浴びてきます」

「どうぞ」

心臓が飛び出しそうになるくらいときめいている。ベッドの壁に背を預けながらスマホをバッグから取り出し手に取る。

手に取った瞬間電話がなった。思わずタップした。

「おーい、瑤子」

まずいラインのテレビ電話を取ってしまった。ちょっと待って、すぐに背景を森にした。

「いいところにいるねー緑の中を散歩中か」

気ままに冗談めかす祐輔にいら立ちながらも相手にした。

「ああ、祐輔、どうしたの?」

「誕生日おめでとう」

祐輔の後ろにリビングが映り込んだ。しゃれたホテルだな、そこに女もいるのか。そう思った瞬間、女性が顔を出した。

「奥様ですか?初めまして、経営企画室の田沼みどりと申します、そしてこちらが同じ企画室の鎌田敏夫です」

あの女だった。レストランで祐輔と一緒にいた女だ。なんと忌々しい、平気で顔を出して、これで私の夫を奪い取ったつもり?一気に怒りがこみ上げる。でもどうしてもう一人男の人がいるのか。

「初めまして」

気持ちとは裏腹な言葉しか出てこない。

「瑤子、今まで黙っていたけど、実は東京で部屋を探していたんだ。経営企画室に打診してさ、家族で住める家を探したよ。瑤子が欲しい大きなベランダもあるんだ」

そう言ってカメラを持った祐輔がベランダに移動する。

「わあすごい」

思わず声が出た。何十畳かあるくらいのテラスが映し出された。

「ここで観葉植物でも野菜でもなんでも作れるね。これ、家賃の半分は会社持ちにしてもらった。瑤子への誕生日のプレゼントだよ」

「え?じゃあ」

「奥様、どうぞご主人といっしょに東京へいらしてください」

あの女が横の男性といっしょに頭を下げる。

「そうだったの?」

こんな企てしていたなんて、それを疑った目で見て、私はなんて悪い女。

「どうかしましたー?」

洗面所から雄二の声が聞こえてきた。

「いや、なんでもない」

「いや、だからこれが誕生日のプレゼントだよ、瑤子、待たせて悪かったな、いっしょに東京に帰ろうな」

東京に帰ろうって、祐輔いつの間にそんな粋なこと言えるようになったの?そう思うととてつもない量の涙があふれだしてきた。

「あの、あの」

雄二が洗面所のドアから顔だけ出した。瑤子はすぐに画面に視線を戻す。

頭の中でレストランで撮った映像が渦巻いている。あとで絶対に消去しよう、いや今すぐにだ。

そう思いながらも大量に涙が目からあふれ出してくる。私は、私はなんて悪い女。ごめんね祐輔、信じてあげられなくて。

「ありがとー」

鼻水と涙で顔がぐちゃぐちゃになっている。瑤子は雄二と祐輔の目も気にせず大声を出して泣いていた。

PS.ありがとう 了

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