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遠望14

兵隊でいながら戦争に加担しなかったロバートは、一人でも出来ることを証明したのか?


「気をつけてね〜」と美貴が叫ぶと、姿が見えなくなった姫野の声が「美貴ちゃん、明日ね〜」と届いた。

「さ、家に入ろう。日が沈むと冷えてきた」
 康一が三人を家の中に誘いドアを閉めた。
「美貴、夕ご飯を作ろう。手伝って」
「うん。お父さん、何作る?」
 由季子が椅子に腰掛けながら二人に声をかけた。
「ご飯は炊いてあるのよ。でも冷たくなっているから炒飯作ってほしいわ。お味噌汁もおかずもあるから温めるだけでいいのよ」
「お婆ちゃん、スゴイ。じゃすぐ出来るね」
 二人が台所に入るとロバートは暖炉に薪を入れ火を点ける用意を始めた。この暖炉はパイプを通してあり、お風呂のお湯も湧かせる作りになっている。
「お爺ちゃん、もう火を入れるの?」
「少し寒くないかい?この歳になると冷えに敏感になってね」
と、一人で笑った。

 食事を終え、お茶を飲んでいるロバートの顔にいつもと違う静けさを感じた康一が聞いた。
「親父。どうした?何かあるの?」
 湯飲みを持ったまま暖炉の火を見ていたが我に返ったように座り直し康一を見た。
「みんなに迷惑をかける事になるねぇ。正一と三恵子さんにも。お前もそうだが美貴はまだ二十歳だ。老人の暴走に振り回されて良いのかな。まだ今なら記者発表をやめることができるなと思ってね」
 ほとんど見た事の無い父の表情だった。常に明るく、どんな状況でも迷いの無い選択をしてきた父がとまどいの表情をしていた。
「親父がやりたいことをしたら良いさ。記者発表をやめたいならやめたら良いのさ。自分で決めて来た人生なんだから、やりたいように」
「ダメよ!それはダメよ!」
 康一の言葉を遮るように風呂場のドアが開き、美貴が出て来た。
 由季子とお風呂に入っていた美貴はバスタオルで頭を拭きながらロバートの側に来て、
「お爺ちゃんの生き方は世界中の人々に知らせるべきだと思うの。国が決めた事にみんな自然に従っているけど、自分の意志で決めた人もいるのよって知らせることは大事なのよ。お爺ちゃんは国が始めた戦争に多くの人を集めて反対運動をする事はなかったけど、個人の意思で戦争に加担しなかった。それが凄いことだと私は思っているの。普通に暮らしている人たちはみんなに声をかけて大きな運動に発展させることは出来ないわ。廻りのことを考えちゃうもの。でも、自分一人ならできることがある。それをみんながやったらそれぞれは繫がっていなくても国の決めた戦争に反対することができる。お爺ちゃんはたった一人でそれを証明したのよ。お父さんもそれを感じていたんでしょう?だから、元気なうちに外に出た方が良いなって思っていたんじゃない?それをなんとなく私も感じていたから三宅さんたちを呼んじゃったと思うの。お爺ちゃん、私の為に遠慮なんかしないで!お婆ちゃんと一緒に人生の後半をエンジョイして!」
 美貴が話している間に風呂場から出た由季子がいつの間にかワインを持ってロバートの側に立っていた。
「美貴ちゃん、ありがとう。じゃ、明日から私たち越谷家に起こるかも知れないハプニングを家族みんなでエンジョイするため乾杯しましょ!」
 康一がワイングラスを四つテーブルに置くと由季子が注いだ。
「よし、これでほんとに決めたぞ!六十九年前に飛行機で空からこの山に降りて来た僕は明日、籠で山から降りるぞ〜。良いか〜」
「お爺ちゃん、カッコイイ〜。カンパ~イ」
「籠って言うのがダサイ気がするけどな」
「お父さんはもう黙ってなさ〜い」
 四人で大笑いしてそれぞれベッドに入った。
三十分程経ってみんな寝ていたと思った頃、康一がつぶやいた。
「こんな静かな夜は今日で最後かも知れないな」
 三人とも起きていたがその言葉を噛み締めながら誰も何も言わずにそのまま眠りに入って行った。

 翌朝、早い時間に朝食を済ませた四人はそれぞれが花木の手入れをしていた。康一と美貴は室内の鉢を全て外へ移し、ロバートと由季子は庭の花壇や野菜畑の草抜きをし、もうすぐ雨が降ると感じながらも水をかけていた。ここへ戻れるのが次はいつになるのか誰も想像ができないためつい多めにかけていた。
 一段落がつき庭のベンチに一列に腰掛け、鮮やかな濃い緑色に変わり始めている山の景色を見ていると風が四人に話しかけてきた。
 明日も明後日も何年後でも何十年後でもここは何も変わらないのよ。陽が射し、雨が降り、風が吹き、雪が積もる。霧が籠もり、雲が垂れ込み、虹が光る。今日も明日も明後日も、六十九年前と変わらない。土の匂いも、風の香りもずっと一緒なの。
 ベンチに座っている四人の足元の木の葉が風の声を代弁するように目の高さでくるくると何度も廻ってから眼下へ飛んで行った。落ちて行った木の葉が見えなくなると美貴が、
「お爺ちゃん、お婆ちゃん。今日、山を降りるけどいつかまたここに戻って来た時も今日と何も変わらないんだって。聞こえた?風がそう言っていたように私には聞こえたわ」
 一枚の木の葉を手に取っていた由季子はその葉っぱと美貴を見つめながら、
「美貴ちゃん、私もそう聞こえたわ。山を降りたら私たちの廻りはきっと凄まじく変わると思うけど、帰ってきたときのここの自然は、風や森は何も変わらないままで待っていてくれるのよね」
 由季子の言葉に誰も返事をしなかった。何も変わらないまま待っていてくれるということより、山を降りたら凄まじく変わるという言葉の強さが想像力を増幅させてしまい気軽にうなずくことが出来なかった。
 康一が深呼吸しながら立ち上がった。
「そろそろ大筒さんたちが来る頃かな。親父とお袋の荷造りしようか。着替えはとりあえず四〜五着で良いんじゃないかな。不足したら僕が取りにくるから」
「そうね。私も取りにくるわ。新しいの買っても良いしね。時々三恵子お婆ちゃんの買い物につき合うけど選ぶセンスあるわよね。自分の好みと、お婆ちゃんたち二人の好みの違いを分かっているのよね。あっ!お婆ちゃん、三恵子お婆ちゃんと会うのは久しぶりじゃない?」
 ベンチから立ち上がり、階段を上がり始めていた由季子が美貴に振り向きながら指を折り計算を始めた。
「あぁ、そうねぇ。七年ぶりになるかしら。三恵子さんが六十八歳の時が最後だったわね。もう、足腰がきつくて来れないと思うわって言って。あれから七年になるのね。正一も、もうそろそろ無理な年でしょうね。七十八になるもの。そう考えると良いキッカケだったのかも知れないわねぇ〜」
「親父とお袋こそ美貴が三歳の頃に動物園に行ったとき以来だから十七年ぶりじゃないかな、山を降りるのは」
「わぁ、そうよお婆ちゃん。色々と街も変わっているから驚くわよ」
 寝室の横にある広い押し入れから取り出した服を選び、二つのリュックに仕舞うと扉を叩く音が聞こえた。
「いらっしゃ〜い」
 美貴が扉を開けると、三宅と姫野が合羽を着て立っていた。
「あら?雨降ってきたの?とりあえず入って、お茶でもどうぞ」
「美貴ちゃん、本降りになる前に山を降りたいの。足元が滑りやすくなる前に」
 姫野と美貴が話している横を通り抜けて三宅が家の中に声をかけた。
「おはようございます。昨日お二人がおっしゃっていたように、つい先ほどから霧雨が降り出して来ました。大学の山岳部の学生さんたちに籠を担いできてもらいましたが、上りよりも下りが滑りやすいと思いますので早めに降りたいと思います。ご準備はできておられますでしょうか?」

遠望15へ(4月16日)続く。1から読みたい方はこちら。


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