見出し画像

本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 52 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 2 上洛不発 

信長は、河野島で斎藤龍興に敗れた。

 信長は、思い知らされた。
 
  出張の翌日より、風雨濃水に付きて、
  自他、行(てだて)に及ばず候ひき、
  漸(ようや)く、水引き候間、
  取り懸け相果つべきの由、儀定候のところ、
  去八日未明に、織上敗軍仕り候、

信長の決断は、正しかった。

 恐るべし。
 斎藤龍興。
 手強い相手だった。

  川へ逃げ入り、水に没溺し候者ども数知らず候、
  残党、川際に於いて少々討ちとり候、
  兵具已下、捨て候為体(ていたらく)、前代未聞に候、

隙を見せれば、命を取られる。

 斎藤氏の戦力、未だ健在。
 「上洛しておれば」
 背後を衝かれる可能性があった。
 世は、戦国時代。
 生き残るためには、手段を選ばず。
 何が起きても、おかしくない時代だった。 
 
  一戦を遂げず退散候の間、数多(あまた)討ち取らざること、
  無念少なからず候、

  然りと雖も、此方存分に任すの条、御心易かるべく候、
  織田在陣中、注進申すべく候へども、程なく落居候間、
  その儀なく候、
                          (「中島文書」)

信長は、再認識させられた。

 「稲葉山」
 斎藤氏を滅ぼさずして、上洛などありえぬことを。

 信長は、これ以後、美濃への調略を徹底する。

          ⇒ 次回へつづく 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?