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本能寺の変 1582 光秀と信長 4 78 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 4 御父信長 

義昭は、信長を招いて能を張行した。

 信長は、知っていた。
 好事がいつまでも続かぬことを。
 そして、この先間もなく起こるだろう新たな波乱を。

  今度、粉骨の面々、見物仕るべきの旨、上意にて、
  観世太夫に御能を仰せ付けらる。

義昭は、得意の絶頂にあった。

 信長は、義昭を戒めた。
 
  御能組(組み立て)、わき弓八幡(ゆみやわた)御書立十三番なり。
 
  信長、御書立御覧じ、
  未だ隣国の御望みもこれある事に侯間、
  弓矢納まりたるところ、御存分なき由に侯て、
  五番につゞめられ、細川殿の御殿にて御座侯ひき。

義昭は、信長に副将軍職か管領職を与えようとした。

 信長と義昭。
 多くの者たちが二人を見ていた。

  初献の御酌、細川典厩(藤賢)。 

  爰(ここ)において信長へ、

使者は、細川藤孝。

 藤孝は、信長が快諾すると思った。
 信長のことを、まだ、よく知らない。

  久我殿・細川兵部大輔・和田伊賀守(惟政)、三使を以て、
  再三、御使これあり、

  副将軍歟(か)官領職に准ぜらるべきの趣を仰せ出ださる。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく 

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