本能寺の変 1582 光秀の年齢 3 143 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の年齢 3 土岐の随分衆
五十歳とした場合
天文二年(1533)の生れとなり、
天文十六年(1547)、すなわち、頼純が殺害された年は、十四歳に
なる。
これでは、家臣として若すぎる。
故に、これは適合しない。
五十五歳とした場合
享禄元年(1528)の生れとなり、
天文十六年(1547)は、二十歳。
家臣としては、この辺りが下限になるではなかろうか。
とすれば、
弘治年間(1555~1557)、
すなわち、光秀が妻木氏を娶った頃は、二十八~三十歳となる。
そして、
永禄十一年(1568)、
すなわち、信長に出会った頃は、四十一歳となる。
六十歳とした場合
大永三年(1523)の生れとなり、
天文十六年(1547)は、二十五歳。
もう、立派な武士である。
とすれば、
弘治年間は、三十三~三十五歳となる。
当時としては、晩婚である。
そして、
永禄十一年(1568)は、四十六歳。
まだまだ、これからと言える年頃。
信長は、この時、三十五歳。
年の差、十一歳。
永禄十一年1568、信長は三十五歳。
光秀に、注目した。
光秀は、信長の目に止まった。
その様な年齢だったのだろう。
⇒ 次回へつづく
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