見出し画像

本能寺の変 1582 上総介信長 4 200 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 4 道三の援軍 

信長は、道三に援軍を頼んだ。

 他に、道はない。
 
  信長の御舅にて侯斎藤山城道三かたへ、
  番手の人数を一勢、乞ひに、遣はされ侯。

道三は、快諾した。

 即決、即断。
 直ちに、援軍を送った。
 大将は、安藤守就。
 
  道三かたより、
  正月十八日、那古屋留守居として、
  安東伊賀守大将にて、人数千計り、
  田宮・甲山・安斎・熊沢・物取新五、此れ等を相加へ、
  見及ぶ様体、日々注進候へ、と申し付け、

道三の援軍が到着した。

 美濃勢は、那古野城の近くに陣取った。
 
 同じ事に、正月廿日、尾州へ着き越し候ひき。
 居城那古野近所、志賀・田幡両郷*に陣取りをかせられ、
 廿日に、陣取り御見舞として、信長、御出で、安東伊賀に一礼仰せられ、
                          (『信長公記』)

 
   *志賀 愛知県名古屋市北区志賀本通 
   *田幡 愛知県名古屋市北区田幡

林秀貞、離脱。

 ところが、出陣間際になって、林秀貞が異議を申し立てた。
 秀貞は、一長(筆頭家老)。
 直前の離脱であった。 
 
  翌日、御出陣侯はんのところ、
  一長(おとな)の林新五郎・其の弟美作守(みまさかのかみ)兄弟、
  不足を申し立て、
  林与力、あらご(荒子*)の前田与十郎城へ罷り退き侯。

   *荒子 愛知県名古屋市中川区荒子町

信長は、このことを忘れない。

 信長は、誇り高い男だった。
 これでは、面目丸潰れ。
 なれど、戦の前。
 信長は、堪えた。 

  御家老の衆、いかゞ御座侯はんと申し侯へども、
  左候へども苦しからざるの由、上総介仰せられ侯て、御働き。

 その上、執念深い。
 これについては、後述する。

信長は、熱田へ向かった。

 この日は、熱田泊。  

  其の日は、ものかはと云ふ御馬にめし、
  正月廿一日、あつたに御泊り、
                          (『信長公記』)

 

          ⇒ 次回へつづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?