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本能寺の変 1582 上総介信長 4 199~204 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 4 道三の援軍 

*199~204は、バックナンバーです。

199 今川勢が尾張に侵入した。

   今川勢は、村木に砦を構えた。          『信長公記』
   信長は、水野信元を救援しようとした。      『信長公記』
   那古野城が、清洲織田氏に襲われる恐れがあった。 『信長公記』

200 信長は、道三に援軍を頼んだ。      『信長公記』

   道三は、快諾した。               『信長公記』
   道三の援軍が到着した。             『信長公記』
   林秀貞、離脱。                 『信長公記』
   信長は、このことを忘れない。          『信長公記』
   信長は、熱田へ向かった。            『信長公記』

201 信長は、荒海を渡って、緒川に到着した。 『信長公記』

202 村木砦の合戦。             『信長公記』

   信長の親衛隊が活躍した。            『信長公記』
   信長は、鉄炮を用いた。             『信長公記』

203 信長は、村木砦を落とした。       『信長公記』

   信長は、涙を流した。              『信長公記』
   信長、那古野に帰陣。              『信長公記』

204 信長は、道三へ、御礼の言葉を伝えた。  『信長公記』

   それに対する、道三の信長評である。       『信長公記』
   道三は、義龍に家督を譲った。          『信長公記』
 

          ⇒ 次回へつづく

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