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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 5 32 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 5 分かれ道 

信長は、苛烈だった。

 厳しく、激しやすい性格だった。
 予測、不能。
 それは、ある日、突然、やって来る。

竹生島、参詣事件。

 天正九年(1581)、四月。
 信長は、わずかな供廻りで安土城を発った。
 
  四月十日、信長御小姓衆五、六人召し列れられ、竹生島御参詣。
  長浜の羽柴筑前(秀吉)所まで御馬にめされ、
  是れより海上五里、御舟にて御社参。

 信長は、参詣を終え、その日のうちに帰城した。
 「希代の題目なり」
 並外れた、気力・体力の持ち主なのである。

  海陸ともに片道十五里の所を、日の内に上り下り、
  三十里の道、御帰城なさる。

  希代の題目なり。
  併(しか)しながら、御機力も、余人にかはり、
  御達者に御座侯のところ、
  諸人、感じ奉り侯なり。

 
 ここで、事件が起きた。
 
  遠路に侯へば、今日は長浜に御逗留侯はんと、
  何れも存知のところ、

  御帰り侯て御覧侯へば、

 
女たちは、慌てふためいた。

  御女房たち、
  或ひは、二丸まで出でられ、
  或ひは、桑実(くわのみ)寺薬師参りもあり。
  御城内は、行きあたり、もだえ焦(こが)れ、仰天限りなし。  

信長は、女房衆らを誅殺した。

 「御成敗侯なり」
  容赦しない。

  則ち、くゝり縛り、

  桑実寺へ、女房ども出だし侯へと御使を遣(つか)はされ侯へば、

  御慈悲に御助け侯へと、長老、詫言申し上げられ侯へば、
  其の長老をも、同事に御成敗侯なり。

                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく 


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