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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 5 33 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 5 分かれ道 

その時、光秀は丹後にいた。

 亀山城を出発。
 山陰道を通って、福知山から宮津へ向かう。
 津田宗及らを同道した。
 
  四月九日に、
  丹波亀山より奥郡へ通り申す路次中にて、方々振舞いこれ有り、

光秀は、福知山城に明智秀満を置いた。

 秀満は、光秀の最重臣。
 娘婿である。

 光秀には、適齢の娘が三人いた。
 その内の一人が、荒木村重の嫡男村次に嫁いだ。
 しかし、謀反により、離縁され、明智に戻された。
 後、秀満に再嫁した。

 同城にて、饗応があった。

  四月十日朝、
  福知山にて、明知弥平次殿の振舞、七五三の膳なり、

束の間の平穏。

 急ぐ旅にあらず。
 丹後への道。
 長閑な景色を眺めつつ。
 光秀一行は、ゆっくりと北上した。
 
  四月十一日朝、 福知山より罷り出で候なり、
  惟任殿御供申し候、

世俗を離れて。

 その途上にて。 
 ひと時を楽しむ。
  風流である。

  路次にて、福寿院(愛宕山下坊)振舞、
  茶屋を立て、
  生鮎・生鯉・鮒、せんすひ(さんすい)を俄(にわか)用意にて、
  魚共をはなされ候、
  是れも七五三、色々様々に振舞なり、
                         (「天王寺屋会記」)


          ⇒ 次回へつづく 


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