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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 4 169 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 4 大うつけ 

信秀は、美濃へ出陣した。

 天文十六年、十一月。
 信秀は、再び、美濃へ攻め入った。
 大垣城の後詰として。
 稲葉山(井ノ口)城に、攻め寄せる姿勢を見せた。

  霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ、斎藤山城道三攻め寄するの由、
  注進切々なり。
 
  其の儀においては、打ち立つべきの由にて、
  霜月十七日、織田備後守殿、後巻として、又、憑み勢をさせられ、
  木曾川・飛騨川の大河、舟渡しをこさせられ、
  美濃国へ御乱入、 
  竹が鼻に放火侯て、あかなべ(茜部)口へ御働き侯て、
  所々に烟(けむり)を揚げられ侯間、

道三は、大垣城より引き返した。

 これを、取り止め。
 急ぎ、稲葉山へ。

  道三、仰天致し、
  虎口を甘(くつろ)げ、井の口居城へ引き入るなり。
 
  か様に、程なく傭後守、軽々と御発足、
  御手柄、申すばかりなき次第なり。

道三は、清州織田氏と手を結んだ。

 ところが、この隙に、清州勢が古渡城を攻めた。
 道三と通じていた。
 
  霜月廿日、此の留守に、尾州の内清洲衆、
  備後守殿古渡新城へ人数を出だし、
  町口放火侯て、御敵の色を立てられ侯。

信秀は、撤退を余儀なくされた。

 急ぎ、帰城。
 今度は、清州織田氏と戦争状態に突入した。
 
  此の如く侯間、備後守御帰陣なり。
  是れより、鉾楯に及び侯ひき。
                          (『信長公記』)

信秀は、窮地に追い込まれた。

 道三のみならず。
 清洲織田氏までも。
 そして、今川義元、・・・・・。 


          ⇒ 次回へつづく

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