本能寺の変 1582 上総介信長 5 207 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 5 清洲乗取り
信長は、清洲城を手に入れた。
信光の勲功、大なるものがあった。
一、四月廿日、
(信光は)
坂井大膳、御礼に、南やぐらへ御礼に参り侯はゞ、
御生害なさらるべしと、
人数を伏し置き、相待たるゝのところ、
坂井大膳は、今川義元に通じていた。
駿河へ逐電した。
城中まで参り、冷(すさま)じきけしきをみて、
風をくり、逃げ去り侯て、
直ちに、駿河へ罷り越し、今川義元を憑み在国なり。
信長の下剋上である。
清洲織田氏は、主筋である。
その当主を自害へ追い込んだ。
守護代織田彦五郎殿を推し寄せ、腹をきらせ、清洲の城を乗取り、
上総介信長へ渡し進せられ、孫三郎殿は那古野の城へ御移り。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく