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本能寺の変 1582 光秀と信長 3 65~74 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 3 上洛 

*65~74は、バックナンバーです。

65 永禄十一年(1568)、秋。

  信長、京へ。              『信長公記』

  信長は、尾・濃・勢・三、四ヶ国の軍勢を率いた。 『信長公記』
  徳川の軍勢も、参陣した。
  信長は、六角承禎の様子を窺った。        『信長公記』

66 信長は、箕作城を攻め落とした。     『信長公記』

  六角承禎は、城を棄て逃げた。          『信長公記』
  信長は、六角氏の領地と家臣を手に入れた。    『信長公記』

67 信長は、迎えの使者を派した。      『信長公記』

  義昭は、立政寺を出発した。           『信長公記』
  信長は、三井寺に入った。            『信長公記』
  信長は、ここで義昭と合流した。         『信長公記』

68 信長、上洛。              『信長公記』

  信長は、三好三人衆を攻撃した。         『信長公記』
  義昭、上洛。                  『信長公記』
  山科言継がこの歴史的瞬間を見ていた。      「言継卿記」
  細川藤孝も、京に入った。            「言継卿記」
  光秀も、これに同じ。              「言継卿記」
  京の近郊で、戦いが始まった。          「言継卿記」

69 信長は、反対勢力の掃討戦へ向かった。  『信長公記』

  浅井長政の軍勢も、参陣していた。        「言継卿記」
  義昭が出馬した。                「言継卿記」

70 摂津は、三好氏の根拠地である。

  信長は、山崎へ進出した。            『信長公記』
  義昭も、山崎へ。                「言継卿記」
  松永久秀が娘を人質に差し出した。       『多聞院日記』

71 義昭は、天神馬場へ進んだ。       「言継卿記」

  芥川山城が落ちた。               『信長公記』
  信長は、義昭を奉じて芥川山城に入った。     『信長公記』
  山科言継は、これらを克明に記録していた。    「言継卿記」

72 信長は、池田城を攻めた。        『信長公記』

  城中には、荒木村重がいた。           『信長公記』
  光秀は、後に、細川藤孝・荒木村重と婚姻関係を結ぶ。
  池田氏、降伏。                 『信長公記』

73 信長は、軍勢を芥川山城に納めた。    『信長公記』

  義昭も、芥川山城に入った。           「言継卿記」
  松永久秀は、芥川山城へ向かった。       『多聞院日記』
  近隣の諸大名も、続々とやってきた。       「言継卿記」

74 久秀は、天下の大名物九十九髪を献上した。『信長公記』

  信長は、多くの人たちから挨拶を受けた。     『信長公記』
  信長は、久秀の大和支配を認知した。      『多聞院日記』
  信長は、芥川山城に十四日間滞在した。      『信長公記』

 
          ⇒ 次回へつづく

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