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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 5 34 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 5 分かれ道 

細川藤孝が光秀一行を出迎えた。

 宮津に到着。
 そして、饗応。
 心地よい時が流れる。

  四月十二日の朝、 長岡与壹郎殿の振舞

  一、御人数 惟任日向守殿父子三人
        長岡兵部太夫殿父子三人
        紹巴 宗及 宗二 道是

    本膳七ツ、二膳五ツ、三膳五ツ、四膳三ツ、五膳三ツ、引物二色
    以上七の膳なり、
    菓子むすび(結)花にてかざ(飾)り、十一種なり、

「惟任日向守殿父子三人」

 一人は、十五郎光慶。
 もう一人は、秀満のことであろうか。

「長岡兵部太夫殿父子三人」

 細川藤孝、嫡男忠興(与一郎)、二男興元(頓五郎)。

細川忠興は、光秀の娘婿である。

 光秀の三女という。
 後の細川ガラシャ。

 忠興から光秀へ。
 太刀を進上。

  一、御酒半に、地蔵行平の太刀、
    与一郎殿より、日向殿へ御進上候なり、
                        (「天王寺屋会記」)

光秀は、風流の人だった。

 「紹巴 宗及 宗二 道是」、とある。
 里村紹巴は、連歌師。
 津田宗及・山上宗二・平野道是は、茶人。
 何れも、当代一流の文化人である。

光秀、天橋立に遊ぶ。

 「戦のない世」
 その有難さが身に染みた。
 最良の一日であった。
 
  同十二日の巳の刻に、 
  九世戸へ見物、かざり船にて、并びに橋立の文殊にて御振舞これあり、

  一、俄(にわか)夕立の雨ふりて、    兵部大夫殿藤孝

     夕立のけふハ(刃)はハや(早)き切戸哉、

  一、紹巴と、日向殿と、太夫殿と連歌あり、
    九世戸の松になへ松といふ松なり、其れについての発句あり、

     うふ(植)てる松は千年(ちとせ)のさなえ
(早苗)哉   光秀
     夏山うつす水の見なかみ(水上)   藤孝
     夕立のあとさりげなき月見へて  紹巴
                       (「天王寺屋会記」)


          ⇒ 次回へつづく 


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