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本能寺の変 1582 光秀と信長 3 70 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 3 上洛 

摂津は、三好氏の根拠地である。

 その本城は、芥川山城(高槻)。
 城には、三好長逸(ながゆき)が立て籠もっていた。
 長逸は、三好三人衆の頭目。
 京兆家の当主細川昭元(19歳)を擁している。

信長は、山崎へ進出した。

 狙いは、同城を手に入れること。
 三好から、織田へ。
 時代は、変わった。
 そのことを、広く世に知らしめようとした。
 
  晦日(二十八日の誤り)、山崎御着陣。
  先陣は、天神の馬場に陣取る(大阪府高槻市天神町)。
                          (『信長公記』)

義昭も、山崎へ。

 「取物」、「放火」。
 
付近は、騒然たる状況だった。

  廿八日、甲戌(きのえいぬ)、雨降る、巳の刻(10時頃)より天晴、
  早旦より、度々禁中見舞い申す、
  油小路まで中山以下七八人見物に罷り出で、二条まで下る、
  山崎破るの由、申す、
  取物(掠奪)ども、繁多なり、
  西岡辺り、悉(ことごと)く尚放火、
  武家、御所、山崎の竹内左兵衛亭え御座を移さると云々、
  先勢、芥川の市塲放火と云々、
                         (「言継卿記」)

松永久秀が娘を人質に差し出した。

 大和である。
 久秀は、信長に急接近していた。 
 
  昨日、松少より、人質に広橋殿のむすめ祝言と号し、
  京へ上せられ了んぬ、
  尾張守へ遣わされ了んぬ、
                  (『多聞院日記』九月二十九日条)


          ⇒ 次回へつづく 


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