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本能寺の変 1582 光秀と信長 4 82 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 4 御父信長 

義昭は、幕府の体裁を整えた。

 新たな体制である。
 以下、人員構成等について示す(①~⑬)。

細川藤孝は、御供衆。

 義昭の最重臣の一人。
 桂川以西の地と勝竜寺城を与えられた。 

和田惟政も、これに同じ。

 藤孝に次ぐ、功労者の一人。
 惟政は、摂津三守護の一人に任じられた。
 初めは芥川山城、後に高槻城を居城とする。

 藤孝と惟政の貢献度の大きさがこれでわかる。
 
 ①御供衆(次第不同)。 
 
   大館伊予守晴忠。
   一色式部少輔藤長。
   細川兵部大輔藤孝。
   上野陸奥守信忠。佐渡守に任ず。
   上野大蔵大輔豪孝。
   武田刑部大輔信実。
   佐々木治部大輔高成。京極弟。
   一色播磨守晴家。
   武田治部少輔信堅。
   和田伊賀守惟政。
   伊勢宮千代。
   畠山次郎。
   上野民部大輔憲忠。

三淵藤英は、御部屋衆。

 細川藤孝は、三淵晴員(はるかず)の二男。
 幼くして、細川刑部少輔晴広の養子になった。
 以後、細川を称す。

 藤英は、三淵晴員(はるかず)の嫡男。
 藤孝の兄である。
 子に、秋豪(あきひで)がいた。

 三淵氏は、父・子・孫、一家三代が幕府の要職にあった。
 
 ②御部屋衆
 
   大館源五郎宗貞。治部少輔に任ず。
   三淵伊賀道宗薫(晴員)。
   同弾正左衛門慰藤英。大和守に任ず。
   朽木刑部少輔藤綱。
   杉原上総介長盛。
   荒川與蔵輝宗。
   三淵弥四郎秋豪。
   一色三郎秋成。
   上野中務太郎秀政。堀弥八郎。當御蒼衆なり。
   一色刑部少輔氏明。吉良殿弟なり。
   一色四郎秋孝。
   一色駿河守孝秀。初め二階堂と号す。
   上野宮内少輔。
   伊勢上野介。
   同幸松。
 
③申次。
 
   飯川山城守信堅。
   大和治部少輔孝宗。
   一色市正信忠。
   矢嶋越中守定行。
   安東蔵人泰職。
   海老名中務少輔。
                  (「永禄六年諸役人附」後半部分)


          ⇒ 次回へつづく 

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