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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 5 176 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 5 光秀の壮年時代 

下剋上、成る。

道三は、頼芸を追放した。

 同年十月~十一月初め頃。
 道三は、美濃を奪い取った。
 父子二代の下剋上。
 ここに、成る。 
 
  父土岐頼藝公、大桑(おおが)に御座侯を、
  家老の者どもに属託をとらせ(仕事を頼んで任せること)、
  大桑を追ひ出し侯。

  それより、土岐殿は、尾州へ御出で侯て、
  信長の父の織田弾正忠を憑みなされ侯。

道三の下剋上に対する世人の評価。

 辻々に、落首が立てられた。
 人々は、道三を、その昔、源義朝(頼朝の父)を殺害した長田忠致(ただむね)
 に比した。
 
  爰にて何者の云為哉(しわざやらん)。
  落書に云く、
 
   主をきり聟をころすは身のおはり、
      むかしはおさだ、いまは山しろ、
 
  と侍り、七まがり、百曲に、立て置き侯ひし。

道三の人生は、乗っ取りの連続だった。

 先ず、小守護代長井氏。
 次に、守護代斎藤氏。
 最後に、守護土岐氏。
 
  恩を蒙り恩を知らざるは、樹鳥、枝を枯らす、に似たり。 

 太田牛一は、冷酷非道の人物だったと言っている。

  山城道三は、小科の輩(ともがら)をも牛裂きにし、
  或ひは、釜を居ゑ置き、其の女房や親兄弟に火をたかせ、
  人を煎(に)殺し、事冷敷(すさまじき)成敗なり。
                           (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく

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