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本能寺の変 1582 光秀の年齢 2 137 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 2 柴田勝家と滝川一益 

光秀は、老人ではない。

 光秀には、それが出来た。
 ということは、まだ老人ではない。

しかし、着実に、それに近づいていた。

 遠征は、過酷な軍旅。
 肉体的負担が大きい。
 光秀にとっても、それは同じ。
 甲斐遠征のように、長期間となれば、なおさらである。
 光秀は、これまでにない、疲労を感じていた。

 中国大遠征は、それよりも、さらに、その規模が大きくなる。
 「天下布武」の総仕上げ。
 織田家の総力を結集した戦いである。

信長の部将たち。

柴田勝家は、六十一歳。

  大永二年(1522)の生れ。
  この時、六十一歳。
  織田家の部将として、最長老である。

  天正三年(1575)。
  越前八郡を与えられた。
  北庄城を居城とする。
  北陸方面軍の総司令官である。

滝川一益は、五十八歳。

  大永五年(1525)の生れ。
  この時、五十八歳。

  天正二年(1574)。
  長島殲滅戦の後、北伊勢五郡を与えられた。
  天正三年(1575)。
  長篠の合戦に参陣。
  天正八年(1580)。
  北条氏の取次に任ぜられた。
  天正十年(1582)三月。
  信忠の補佐役として、甲斐攻めに従軍。
  田野で武田勝頼を討取った。
  上野一国・信濃二郡を与えられ、東国の総取次を命じられる。

  一益もまた、光秀同様、その行動範囲が広い。
  正に、東奔西走。
  信長の、あらゆる戦いに参陣している。

丹羽長秀は、四十八歳。

  天文四年(1535)の生れ。
  四十八歳。
  信長の一つ下。
  若くして、信長に仕えた。
  股肱の臣である。
  その信頼は、あつい。
  佐和山城主。
  若狭の支配を兼任。

  天正三年(1575)。
  長篠の合戦に参陣。
  天正十年(1582)五月。
  信孝の補佐役として、四国出陣を命じられる。 

羽柴秀吉は、四十六歳。

  天文六年(1537)の生れ。
  四十六歳。
  長浜城主。

  永禄十三年(1573)。
  毛利取次になる。
  天正三年(1575)。
  長篠の合戦に参陣。
  越前一揆殲滅戦に参陣。
  天正五年(1577)。
  播磨入国。
  天正八年(1580)。
  播磨平定。
  但馬〃〃。
  天正九年(1581)。
  因幡平定。
  淡路島攻略。
  天正十年(1582)三月。
  備中高松城を包囲。


          ⇒ 次回へつづく



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