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本能寺の変 1582 光秀と信長 4 81 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 4 御父信長 

信長は、岐阜に帰城した。

 九月七日、出陣。
 十月二十八日、帰城。
 この二ヶ月に満たぬ間に、世の中は大きく変わった。

  廿六日、江州守山まで御下り。
  廿七日、柏原上菩提院御泊り。 
  廿八日、濃州の内、岐阜に御帰城。
  千秋万歳、珍重々々。
                          (『信長公記』)

信長の名は、諸国へ鳴り響いた。

 家臣らにとっては、自慢の主君。
 「千秋万歳、珍重々々」
 大きな誇りであった。  

信長は、来春、上洛するつもりだった。

 「来二月に、信長、必ず上洛」、とある。
 気懸かりだったのだろう。
 残念ながら、それは、的中する。

信長は、都に五千の兵を残した。

 佐久間信盛・丹羽長秀・木下藤吉郎は、武将として。
 村井貞勝・明院良政は、吏僚として。
 兵数、五千。
 但し、いつまで滞在したのかは不明である。

  廿二日、
  一、京には、尾州より、佐久間・村井・にわ五郎左衛門・明印・
    木下藤吉、五千計(ばか)りにて、残し置きおわんぬ、
    来二月に、信長、必ず上洛あるべきと云々
                 (「多聞院日記」十一月二十二日条)


          ⇒ 次回へつづく 

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