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本能寺の変 1582 光秀の年齢 5 150 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 5 結論 

結論として。

 以上、長々と述べてきた。
 ここで、現時点での、私観を申し述べたい。

下限は、五十五歳ぐらい。 

 すなわち、享禄元年(1528)以前の生れ。

 とすれば、土岐頼純の家臣としては、二十歳以上。
 妻木氏との婚姻時、二十八~三十歳以上。
 信長に出会った頃は、四十一歳以上。

上限は、六十三歳ぐらい。

 光秀は、甲斐遠征に参陣。
 中国大遠征にも、出陣した。
 行動力の観点から、そう判断した。

 すなわち、永正十七年(1520)以後の生れとなる。
 とすれば、土岐頼純の家臣としては、二十八歳以下。
 妻木氏との婚姻時、三十六~三十八歳以下。
 信長に出会った頃は、四十九歳以下。
 この辺りがギリギリなのではないか。

光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。

 光秀は、永正十七年(1520)~享禄元年(1528)の生れ。
 五十五~六十三歳ぐらいということになる。

 とすれば、土岐頼純の家臣としては、二十歳以上~二十八歳以下。
 妻木氏との婚姻時、二十八歳以上~三十八歳以下
 信長に出会った頃は、四十一歳以上~四十九歳以下。
 こんなところでないだろうか。


          ⇒ 次回へつづく



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