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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 1 158 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 1 光秀の少年時代~思春期 

土岐頼純が越前から美濃大桑城に入った。

 天文七年(1538)
 土岐氏の守護所。
 この城が、頼純の居城である(岐阜県山県市)。 

織田信秀が今川氏の那古野城を奪い取った。

 これは、尾張。
 信秀は、この城を本拠とした。

斎藤利政(道三)は、左近大夫を名乗った。

 天文八年(1539)
 
頼芸は、傀儡にすぎない。
 
 道三は、頼芸を擁して、稲葉山城にいた。
 そのほぼ真北、およそ三里半(14~5㎞)に大桑城があった。
 両城は、ともに山城。
 互いに、視認できる位置・距離にあった。 

実権は、斎藤左近大夫利政(道三)が握っていた。

 しかし、未だ、道半ば。
 道三は、策謀の人。 
 大桑城の頼純が邪魔だった。


          ⇒ 次回へつづく


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