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本能寺の変 1582 上総介信長 8 226 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 8 兄、信広の謀叛 

信長は、用心深い。

 兄弟とて、信じられぬ世の中だった。
 一寸先は、闇。
 伏兵は、どこに潜んでいるかわからない。 
 信長は、怖れた。
 「謀叛」。
 出陣も、ままならぬ状況だった。
  
  爰(ここ)にて、信長御諚には、
  さては、家中に謀叛これありとおぼしめされ、

 
信長は、留守居役、佐脇藤右衛門に厳命した。
 何人たりとも城中に入れるべからず。
 
  佐脇、城を一切出づるべからず。
  町人も、惣構をよく(城下の警固を厳重に)、城(木)戸をさし堅め、
  信長御帰陣侯まで、人を入るべからずと、仰せられ侯て、

信長、出陣。

  美濃勢へ向かった。

  懸け出させられ、御人数出だし侯を、

信広は、清洲へ向かった。

 いよいよ、乗っ取りである。

  三郎五郎殿きかせられ、人数打ちふるひ(残さず)清洲へ御出陣なり。

 
しかし、入城を拒否された。

  三郎五郎殿御出でと申し候へども、入れ立て侯はず、

信広の謀叛は、失敗に終わった。

 野心は、潰えた。

  謀叛聞こえ候かと、御不審におぼしめし、急ぎ早々御帰り、

義龍は、軍勢を引いた。

 謀議は、水泡に帰す。

  美濃衆も、引き取り侯ひき。

信長は、帰陣した。

 信長の予期した通り。
 用心深くなければ、生き残れない時代だった。

  信長も、御帰陣候なり。 

信長は、孤立していた。

 この時、二十四歳。
 四囲は、皆敵。
 戦いは、つづく。
 
  一、三郎五郎殿御敵の色を立てさせられ、
    御取合半に候(戦いの最中である)。

    (信長が)御迷惑なる(苦戦している)時、
    見次(継)者は、稀なり(味方する者はいない)。

信長の家臣は、七、八百。

 これが、直臣。
 信長の親衛隊である。
 
精鋭揃えだった。
 「一度も不覚これなし」
 太田牛一の自慢である。
 
    ケ様に、攻め一仁(一人=集中攻撃される状態)に御成り候へども、
    究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍(いらか)を並べ御座候の間、
    御合戦に及び、一度も不覚これなし。
                          (『信長公記』)
 

      

          ⇒ 次回へつづく


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