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本能寺の変 1582 光秀という男 2 100 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 2 「立入左京亮入道隆佐記」 

光秀は、美濃の出身である。

 「美濃国住人、土岐の随分衆なり」、とある。
 
土岐氏は、美濃の守護。
 光秀の明智氏は、その家臣。
 美濃の武士であった。

光秀は、美濃に親戚がいた。

 吉田兼見の日記から、そのことがわかる。
 兼見は、吉田神社の神主である。

 場面は、元亀三年1572、十二月十一日、京。

 この日、京都は大雪だった。
 七寸は、3×7=21cmほど。 
 光秀は、美濃の親類のため兼見に祈祷を依頼した。
 この時の、光秀の所在は、よくわからない。
 築城中の坂本にいたのか。
 それとも、京。
 否、岐阜城の軍議に出ていたのかもしれない。
 
  十一日、雪降る、七寸計り、
  明智十兵衛尉、折帋を以て申し来たり、
  云く、
  濃州より、親類の方、申し上げるなり、
  山王の敷地に、新城(坂本城)を普請せしむなり、
  其れ以来、不快なり、
  今度、別して祈念の儀憑み入るの由、申し来たるなり、
  鎮札・地鎮、調え遣はすべきの由、返事しおわんぬ、
                          (「兼見卿記」)

 
 「濃州より親類」とは、一体誰なのだろうか。
 光秀の父方・母方・兄弟の縁者なのだろうか。
 それとも、光秀の妻方の関係者か。
 いずれにしても、美濃に在住の縁者である。
 それも、光秀に祈祷を依頼できる間柄。
 となれば、関係は濃い。
 
 また、「山王の敷地」とは坂本のこと。
 「新城を普請」とは、築城中の坂本城をさすものと思われる。


          ⇒ 次回へつづく

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