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本能寺の変 斎藤道三の下剋上 3 161~166 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 3 光秀の青年時代 

*161~166は、バックナンバーです。

161 1540年代 光秀の青年時代

   織田信秀と今川義元の戦いが始まった。
   第一次小豆坂の合戦。              『信長公記』
   織田方の勝利である。              『信長公記』
   信長は、この戦いを忘れない。
   徳川家康、生まれる。 

162 織田信秀が内裏に修理費四千貫を献上した。「多聞院日記」

   信秀には、経済力があった。   

   鉄炮伝来。               『鉄炮記』

   斯くして、日本が西欧と繋がった。

163 美濃では、再び、戦いが始まった。

   朝倉孝景と織田信秀が頼純を支援した。
   信秀は、美濃・三河、二方面で戦っていた。    『信長公記』
   信秀は、美濃へ攻め入った。           『信長公記』
   信秀は、斎藤利政(道三)の反撃をうけ大打撃を被った。『信長公記』

164 斎藤利政は、出家して道三となった。

   道三は、頼純に従属する姿勢を見せた。 
   そして、講和。
   道三の娘が頼純に嫁した。            「春日文書」

165 織田信秀が古渡城を築いた。

   信長、元服。                  『信長公記』
   信秀は、信長に那古野城を与えた。        『信長公記』
   武田勝頼、生まれる。

166 信長、初陣。              『信長公記』

   道三が、頼純を殺害した。            『信長公記』 
 

          ⇒ 次回へつづく

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