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本能寺の変 1582 上総介信長 1 179 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 1 信秀の死 

信長は、弟信勝に末盛城を与えた。

 信勝は、すぐ下の弟。
 母は、正室の土田氏。
 信長と同じ。 
 その子が織田信澄。
 光秀の娘婿である。
 
  一、末盛の城、勘十郎公へ参り、
    柴田権六・佐久間次右衛門、此の外、歴々相添へ御譲りなり。

信長の織田氏は、求心力を失った。

 戦国時代の真っ只中。
 当主が死に、・・・。
 後継者は、十九歳の「大うつけ」。
 となれば、当然、そうなる。

鳴海の山口教継、謀叛。

 同四月。
 信秀の死から、わずか一ヶ月。
 「謀叛」
 山口父子が見限った。
 
  天文弐十弐年(二十一年の誤り)癸丑(みずのとうし)四月十七日、
  織田上総介信長公、十九の御年の事に侯。

  鳴海の城主、山口左馬助、子息九郎二郎、廿(はたち)の年、
  父子、織田備後守殿、御目を懸けられ侯ところ、
  御遷化(せんげ)侯へば、程なく、謀叛を企て、

背後に、今川義元あり。

 義元は、尾張を狙っていた。

  駿河衆(今川勢)を引き入れ、尾州の内へ乱入、
  沙汰の限り(以ての外)の次第なり。
 
  一、鳴海の城には、子息山口九郎二郎を入れ置く。 
  一、笠寺に、取出・要害を構へ、
    かづら山・岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎、
    五人在城なり。 
  一、中村の在所を拵(こしら)へ、父山口左馬助、楯籠(たてこも)る。
                           (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく

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