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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 4 31 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 4 粛清の怖れ 

光秀は、奈良にいた。

 同じ日。
 光秀は、偶然にも、郡山城を検分するため当地を訪れていた。

そこで、信盛の死を知った。

 誰もの、関心事。
 当然、その話となる。
 光秀の耳にも、入ったであろう。 

  一、惟任日向守、郡山城普請見舞いとして、
    今朝、朝早く成身院まで越しおわんぬ、

    十新(十市氏=筒井氏の親族衆)、是れに来おわんぬ、
    成(成身院)にて、一献これ在り、

    頓(やが)て、郡山へ同道しおわんぬ、
    人数、百計(ばか)り歟(か)と云々、
                   (「多聞院日記」八月十九日条)

光秀の苦悩は、次第に大きくなっていく。

 「油断」、すなわち、「死」。
 「幸」と「不幸」は、紙一重。
 一瞬にして、人生が変わってしまう。
 「陥穽」は、至るところに隠れていた。
 「災い」は、音を立てずにやって来る。
 気の抜けぬ時代だった。
 光秀は、このような時代を生きていたのである。

信長は、命に逆らう者を容赦しない。

 繰り返す。
 信長は、絶対専制君主。
 誰よりも、誇り高い男なのである。
 本願寺を、屈服させた男なのである。
 恐ろしい男なのである。

高野滅亡、時刻到来か。

 そのことが、また、証明された。
 高野聖を成敗。
 その数、数百人。
 
  八月十七日、高野聖(ひじり=僧)尋ね捜し、搦(から)め捕へて、
  数百人、万(よろず)方より召し寄せられ、悉く誅せられ侯。

「摂津伊丹の牢人ども」

 荒木村重、謀叛。
 その残党たちである。
 高野山に逃げ込んでいた。
 信長は、彼らを差し出すよう命じた。

  子細は、摂津伊丹の牢人ども、高野に拘(かか)へおき侯。

  其の内にて、一両人召し出ださるべき者侯て、
  御朱印を以て、仰せ遣はされ侯ところ、

高野山は、抗戦の姿勢を見せた。

 これを拒否したのである。 

  其の儀、御返事をば申し上げず、
  剰(あまつさ)へ、御使に遣はせられ侯者十人ばかり、討ち殺し侯。

  毎度、御勘気を蒙る者抱へ置き、緩怠につきて、
  かくの如く侯なり。
                          (『信長公記』)

 これについては、本編で述べる。

 
          ⇒ 次回へつづく 

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