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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 4 21 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 4 粛清の怖れ 

そもそも、大坂攻めの総指揮官は塙直政だった。

 塙(ばん)直政は、信長の側近・馬廻衆。
 生年不詳。
 行政官僚としての経歴が長く、武将としては経験不足だった。
 しかし、信長に抜擢され、目覚ましい出世を遂げた。
 天正二年(1574)五月、山城の守護に任じられる。
 同三年(1575)三月、大和の守護を兼務。
   〃   〃 四月、河内の暫定的支配を兼任。
   〃   〃 五月、長篠の合戦にて、鉄砲隊を指揮。
 そして、今度(こたび)の戦いとなる。
 この様な大軍勢を指揮するのは、初めてだった。
 
 天正四年(1576)。
 信長は、畿内近辺の諸将に出撃を命じた。
 基軸となったのは、荒木村重・細川藤孝・明智光秀・原田(塙)直政の軍勢
 である。
 
  四月十四日、荒木摂津守・永岡兵部大輔・惟任日向守・原田備中四人に
  仰せつけられ、上方の御人数相加へられ、大坂へ推し詰め、

 
 本願寺の周囲には、多くの付城が築かれた。
 四人の配置は、以下の如し。
 
  荒木摂津守は、尼崎より海上を相働き、大坂の北野田に取出を推し
  並べ、三ツ申しつけ、川手の通路を取り切る。

 
  惟任日向守・永岡兵部大輔両人は、大坂より東、南森口・森河内
  両所に、取出申しつけらる。

 
  原田備中は、天王寺に要害丈夫に相構へられ、御敵、ろうの岸・木津
  両所を拘へ、難波口より海上通路仕り侯。
 

「木津を取り侯へ」

 信長が上洛した。
 安土に移ってから、初めてである。
 近くなったことを実感しただろう。
 宿所は、妙覚寺。
 
  四月晦日(みそか)、御出京なされ、京妙覚寺に御寄宿。
 
 信長は、直政に木津砦を攻撃するよう命じた。
 
  木津を取り侯へば、御敵の通路一切止め侯の間、
  彼の在所を取り侯へと、仰せ出ださる。

 
 信長は、天王寺砦に光秀と佐久間信栄を入れた。
 
  天王寺取出には、佐久間甚九郎・惟任日向守置かせられ、
  其の上御検使として、猪子兵助・大津伝十郎差し遣はされ、
 
  則ち、御請け申し侯。
 

その直政が討死した。

  直政が木津砦を攻めた。
 
  五月三日、早朝、
  先は、三好笑岩・根来・和泉衆、
  二段は、原田備中、大和・山城衆同心致し、
  彼の木津へ取り寄せ侯のところ、

 
 しかし、本願寺はこれを見逃さず。
 隙を衝き、猛攻した。
 「数千挺の鉄砲」、とある。
 凄まじい火力であった。
 
  大坂、ろうの岸より罷り出で、一万計りにて推しつゝみ、
  数千挺の鉄炮を以て、散々に打ち立て、

 
 直政は、これを支えることが出来なかった。
 
  上方の人数くづれ、原田備中手前にて請け止め、
  数刻相戦ふと雖(いえど)も、猛勢に取り籠(こ)められ、
  既に、原田備中・塙喜三郎・塙小七郎・蓑浦無右衛門・丹羽小四郎、
  枕を並べて討死なり。

信長は、信盛に直政の後任を命じた。

 五月五日、信長は、京を出陣。
 同 七日、敵勢を撃破した。
 本願寺は、以後、籠城に徹す。
 
 これについては、本編で述べる。
 
 信長は、城の周囲に十ケ所の付城を築き、包囲を厳重にした。
 そして、天王寺砦には、新たに佐久間信盛を配した。
 
  是れより大坂四方の塞(つまり)々に、十ケ所の付城仰せつけられ、
 
  天王寺には、佐久間右衛門・甚九郎、進藤山城・松永弾正・松永
  右衛門佐・水野監物・池田孫次郎・山岡孫太郎・青地千代寿、
  是れ等を定番として置かれ、

 
 また、住吉浜に砦を築いた。
 ここには、真鍋貞友・沼間伝内を入れ、海上の取締りを強化した。
 
  又、住吉浜手に要害拵(こしら)へ、
  まなべ七五三兵衛(しめのひょうえ)・沼野伝内、

  海上の御警固として入れ置かる。
                          (『信長公記』)

 
 ⇒ 次回へつづく 



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