見出し画像

本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 53 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 2 上洛不発 

義昭は、若狭から越前敦賀へ移った。

 同年九月(永禄九年1566)。
 義昭は、立ち直った。
 「越州敦賀に至り退座候」
 再び、越後に目を向けた。
 斯くなれば、頼みの綱は、やはり上杉謙信。

朝倉義景がこれを支援した。

 敦賀の金ヶ崎城に入った。
 「義景馳走に候」
 一年ほど、ここに滞在。
 謙信の出陣を期待した。

義景は、信長の一つ年上。

 朝倉孝景の嫡男。
 天文2年(1533)の生まれ。
 信長と同世代の人物である。
 幕府の有力大名の一人。
 一乗谷を本拠とした。
 やがて、信長の宿敵となる。

義昭は、信長から謙信へ大きく舵を切った。

 以下は、謙信へ送った御内書である。
 「是非とも参陣、偏に頼み入り候」
 頼りとする者など、他にはいない。 
 義昭は、必死だった。
 
  条数を以って言上の旨、懇志の至り、喜び入り候、
  京表の儀、織田尾張守出勢、相違ふ故、
  江州矢島の儀、
  弥(いよいよ)、三好(義継)・松永(久秀)、策有るの間、

  安座成り難く候の条(くだ)り、
  若州へ相越し、

  去る八日、越州敦賀に至り退座候、
  義景(朝倉)馳走に候、

義昭は、上杉と北条の和睦を推し進めた。

 これが、その見返り条件である。

  仍って、東国の儀、大覚寺門跡御下向、
  北条(氏康)と和与の段、申し調(ととの)ふべく候条り、
  是非とも参陣、偏に頼み入り候、

となれば、当然、上杉派の発言力が増大する。

 大覚寺義俊が越後へ向かった。

  一書の趣、重ねて使者を差し下すべく候、
  毎事、身上任せ置き候、
  大方、東蔵坊に申し含め候、
  猶、大覚寺門跡演説有るべく候なり、
 
    九月十三日        義昭御印
      上杉弾正少弼殿
                  (「足利義昭御内書」「歴代古案」)

細川藤孝は、肩身の狭い状況に追い込まれた。

 藤孝は、信長派。
 長い冬の時代に突入した。


          ⇒ 次回へつづく 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?