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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 4 20 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 4 粛清の怖れ 

信長は、無駄を嫌った。

 織田家は、急激に拡大していた。
 信長は、有能な人物を求めた。
 すなわち、役に立つ者。
 信長は、鋭敏な感覚の持ち主だった。
 人を見る目に優れていた。
 結果、光秀の今がある。
 「役に立つ」のか、「立たぬ」のか。
 信長は、その様な目で重臣たちを見ていた。
 人事評価である。
 光秀が、その基準になった。

佐久間信盛の一件。

 それも、突然、やって来た。
 役に立たねば、粛清される。

石山本願寺、退城。

 元亀元年(1570)、戦いが始まった。
 それから、十年。
 天正八年(1580)、ここに、ようやく終わった。
 長い戦いだった。
 信長は、ついに本願寺を降した。
 執念である。

  去る程に、新門跡(教如)、大坂渡し進(まい)らすべきの御請けなり。
 
  天正八年、庚辰(かのえたつ)、
  八月二日、新門跡、大坂退出の次第。
 
  御勅使、近衛殿・勧修寺殿・ 庭田殿。
  右の下使、荒屋善左衛門。
  信長公より相加へらるゝ御使、宮内卿法印(松井友閑)・佐久間右衛門
  (信盛)。
  大坂請取り申さるゝ御検使、矢部善七郎。

 
 退山時の様子である。
 
  八月二日、未の刻(14時頃)、雑賀・淡路島より数百艘の
  迎へ船をよせ、
  近年相拘(かか)へ侯端城の者を初めとして、右往左往に、
  縁々を心懸け、
  海上と陸と、蛛(くも)の子をちらすが如く、ちり々々に別れ侯。

伽藍炎上。

 やがて、出火。
 「西風来たりて」
 「一宇も残さず」
 三日三晩燃えつづけた。
 伽藍は、全て消失した。
 
  弥(いよいよ)、時刻到来して、たへ松の火に、西風来たりて、
  吹き懸け、
  余多の伽藍、一宇も残さず、夜日(よるひる)三日、
  黒雲となつて焼けぬ。

                         (『信長公記』)

信盛の油断である。

 教如の仕業とされる。
 「渡さぬ」
 そう、思っていた。
 
 信長は、誇り高い男。
 不快だった。
 「一杯食わせられた」、のだから。
 腹が立った。
 なれど、忍耐。
 心の内に留めた。
 総指揮官は、佐久間信盛。
 警備上の問題は、・・・・・。
 何やら、雲行きが怪しくなって来た。
 
  一、去る二日、大坂、城渡しおわんぬ、
    近衛殿請け取られ、渡して後、やく(焼)る様に用意しけるか、
    無残、二日一夜、明け三日までに、皆々、焼けおわんぬ、
    過分に、米・塩・噌・資財、悉(ことごと)く以って焼け、
    国家の費(つい)えなり、
 
    本願寺上下、雑賀への(退)きおわんぬと云々、
 
    天文元(1532)、一揆の比(ころ)より歟、
    山階(科)をの(退)き、当年に至り、四十八、九年歟、
    栄花(華)にほこり、天下よりもちせき富貴のところ、
    一時に頓滅、盛衰眼前々々、
                   (「多聞院日記」八月五日条)

 

           ⇒ 次回へつづく 


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