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自分という存在が「大衆のひとかけらである」という自覚を持つ

今日、youtubenの毎週キングコングを見ていて

梶原さんが「もっとチームのみんなにこうしてほしかった!」という内容を西野さんに伝えて、西野さんがそれに対し「こういう風に考えたんじゃないの?」とか「こういう視点で見るとそれはさ」とか「僕だったら」とかいろんな視点で意見を言っているのを見て
「あぁ、こういうことかもしれないな」
と思ったことがあります。

前回の記事で

「裁かない」という本に書いてあった「モノを正確に見るにはライトが2つ必要で、細かい部分をすべて見るには3つ4つと複数の反射鏡が必要」と書いてあった事をとても軽やかに西野さんが実践してるように思えたからです。

そして何より思ったことは「西野さんが自分の主観に執着がないこと」です。

西野さんの運営するオンラインサロンに入って5年ほど経ちます。
思い返してみれば西野さんは頑張る理由とか、挑戦を続ける理由は思い切り主観の理由というか、自分自身の感情に忠実な印象があるんですが「どうやったら続くか」や「どうしたらうまくいくか」は心理学とか実験で出たデータなどを材料に組み立てをしています。
西野さんのエゴみたいな「思い通りにしたい」というような感情はない。

しかも、西野さんは秩序の鬼のような印象があります。
「人の嫌がる事をしない」もちろん
「不機嫌な顔しない」とか
「怒られた時に拗ねるな」とか
「否定的な言葉は使わない」とか
昔から言ってるし、この手のことに関してとても厳しい。

宇多田さんの言葉から感じ取った「自分の気持ちにとことん向き合うけど、他者目線もしっかり持っていて、且つ両方の視点に対してフラットな姿勢」は西野さんも取っていて、梶原さんとのやりとりの中でいつもやっていた事だったんだな、という事に気付きました。
コント仕立てにしてるからわかんなかったのかもしれない。

昔の日本人は自分自身が”何者でもない”という事を当たり前のように自覚していたように思います。
でもいつのまにか「自分は何者かになれるかもしれないし、何者かでありたい」という気持ちが強くなっていったように思います。
そして「特別な何者か」のようにふるまうことが何者かになれる手段だと思っているかのような行動を取る人が多い。
完璧に他者目線が抜けて「自分の視点が正義だ」という思想になっている。

名もなき者だという自覚がない人間には「秩序を守る事」ができなくなっているように思います。
だって秩序とは「その社会・集団などが、望ましい状態を保つための順序やきまり」の事だから。
社会や集団が望ましいと思うものに対して、考えを向けられない人間は秩序から遠い存在だと思います。

「自分が五感を感じる事を始めていって自分を取り戻せたと感じた時に、自分にどんな支配がかかっているかわかるか」
を始めて一か月強経ちましたが、自分に強くかかっていた支配の1つに
「自分が唯一無二の存在で自分が世界を見る手段は”自分の目で見る”という1つの方法だけ」という思考があるなと思います。
自分が唯一無二だという事は間違ってはいないけどそれだけではない。
私は大衆のひとかけらでもある、という視点に気付いていないのは自分の存在に執着があるからで、自分への執着が強くなればなるほど他の視点を持てなくなるように思います。

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