突き抜けた「伝えたさ」とキャストの人生が撮らせたすごい映画。『存在のない子供たち』 byみつばち1号
えいが部、また、すごい映画を観ました。このような映画は観たことがありません。しかし現実に起きていることです。
国連で定める『子どもの権利条約』を成す4つの柱は、「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」。
前職で数多くの国際NGOと関わりがあったわたしの頭には、この映画の冒頭次々と、これらの権利を阻害する、イシューとしての単語が浮かんできました。この映画は、でも違うのです。そうなんだけど、違うのです。うまく言えませんが、子どもの権利条約やSDGsで見えてきづらい、現実に生きる子どもの日々の、感情を含めたその中身、目線が、物語の根となり、体温を上げていました。
レバノンのベイルート、スラム街を舞台に、レバノン人の監督が撮ったこの映画の主人公ゼインは、出生証明書がなく正確な年齢がわからないけど、たぶん12歳の子ども。両親は子だくさん。学校に行けず働かされ、親に暴力を振るわれ、すぐ下の妹は大人の男に売られるようにして結婚させられる。家出した先で助けてくれた見ず知らずの女性もまた、ぎりぎり。この、アフリカ出身の女性が不法滞在で捕まったことも知らず、彼女の赤ちゃんの面倒をみながら留守を預かり、なんとか生き延びようとするゼイン。
ゼインは、子どもに与えられるべきものをなにひとつ与えられずして、人として持つべきものを持っていた。
できるすべてで自分より小さき者たちを守ろうとし叶わない彼の姿に、わたしもまた大人として属するこの世界が、たまらなく呪わしく思えました。
劇中、ミラクルは起きず、理不尽と困難は続きます。笑わないゼイン。けれど、隙間のようなシーンにわたしたちは、やはり持たざる人々の、やさしさも見るのです。食べ物を差し出す人、汚れた体を洗ってくれる人。絶望一色ではない。気休めではなく、これもリアリティだと思いました。
この映画が話題になった所以であり最大の特徴は、ゼイン演じる少年が、レバノンに逃れてきたシリア難民だということです。
プロの役者ではない、いわゆる素人の起用はこれまでの映画にもありましたが、本作ではゼインを含め、出てくる人たちがみんな、役柄さながらの境遇の人たちだそうなのです。
公式サイトでキャストを見れば、彼ら彼女らの紹介文に驚かされるはず。それはもう、圧倒的です。
監督は、脚本も手がけています。巧みなだけでは決して撮れない、突き抜けた「伝えたさ」が、すさまじいエネルギーとなって撮らせた映画だと思います。
その監督が、登場人物たちのような人生を(プロの)役者が演じるのは無理だと語っていた。実際、ゼインの演技は演技なのか?なにもかも彼自身であるようにしか見えませんでした。プロの子役が、たとえ天才であっても、解釈表現であのように演じることは絶対にできないと、確かに思う。
それにしても、赤ちゃんまでが名演という奇跡を目にしてしまい、さらに現実との境目が見えなくなりました。どうしたら赤ちゃんにあんな演技をさせられるのか皆目見当がつきません(見ればわかります!)。
公式サイトにある監督のインタビューより抜粋。
「私は、映画の力を信じていると同時に、大変な理想主義者でもある。映画には、たとえ何かを変えることはできないとしても、少なくとも、何かの話し合いのきっかけになったり、人々にとって考えるきっかけになると確信している。」
理想が冷笑の対象になる昨今ですが、こんなふうに言い切り、このような作品を世界に送り出した彼女(女性の監督です)を、心から、かっこいいと思いました。
みつばち社は、自らを実験台に、“働く”のとらえ直しを実践しています。
・しごと部(部費を稼ぎ、お金を回す経済活動)を中心に、以下の、ひととしてありふれた活動を、本業の一部に据えています。
・ぶんか部(文化にふれ、味わう活動)
・ものづくり部(手作り、手仕事する活動)
・えいが部(映画館で映画を観る活動)
・てがみ部(手紙文化を広げる活動)
・うんどう部(健康でいるための活動)
それぞれが、大なり小なり相互にリンクする活動でもあります。もちろんすべて会社公認、オフィシャル部活動ですが、すべて不定期、自由参加(といっても、みつばち社はもとよりふたりのユニットです)。自分たちが豊かになっていくことで、強い会社であれるよう、これからもチャレンジしていきます。
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