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銭湯映画の検討稿(その2)

主人「ま、いいわ。840億円のお釣りと、はい、鍵」
     釣り銭とゴム輪の着いた棒状の金具(サウナの鍵)を、耕平の掌
     に置く主人。
耕平「かぎ?」
主人「どうぞごゆっくり~」
耕平「……」
     主人の言葉に背中を押され、腑に落ちないままカウンターをあと
     にする耕平。
※「その1」はココ⤴まで!
 
○同・浴場内
     明るい照明に照らされた真っ白な空間。
     磨きあげられた広い床。
     きらきら輝くタイルに覆われた四方の壁。
     奥の壁に描かれているのは富士山など伝統的な銭湯絵ではなく、
     シュールな前衛絵画。(ダリとかマグリットみたいな感じ)
     二列並んだ洗い場の向こうには、三つに区切られた湯船がある。
     湯船の一番小さな区画は寝そべって浸かるジェット湯で、白い気
     泡がごぽごぽと威勢のいい音を立てている。
     一番大きな湯船に、タオルを頭に載せた耕平が浸かっている。
耕平「……」
     古びた外観の建物に似つかわしくない、清潔で真新しい浴場内
     を湯船から見渡す耕平。
     他には客がひとりもいない。
耕平「んん、はあ……」
     思わず漏れた耕平の声が無人の天井で寂しげに反響する。
     所在なげな様子の耕平が、改めて周囲をぐるりと見回す。
     と、視界の片隅に分厚いドアで仕切られた小部屋(=サウナ室)
     が映る。
耕平「あれか。名物……」
     そう呟いて、おもむろに立ちあがる耕平。
     湯船から出て、サウナ室に近づいていく。
耕平「?」
     扉の前まで来た耕平は、そこではたと立ち尽くしてしまう。
     扉のどこにもノブらしきものが存在しない。
     これでは扉をひらけない。
耕平「……あ! 鍵か」
     耕平が自分の足もとに目を遣る。
     右足首に脱衣ロッカーの鍵と、主人に渡された金具(サウナの
     鍵)がはまっている。
     その金具をぎこちなくとりはずす耕平。
     金具を手に扉を調べるが、それを挿し込めるような鍵穴はどこに
     も見当たらない。
耕平「?」
     金具で扉を叩いてみたり――
     扉の隙間にこじ入れようとしたり――
     金具を威勢よく振りおろし「ひらけ、ゴマ!」と叫んでみたり。
     いろいろ試してみた挙句、本来ならノブがあるべき場所に小さな 
     切れ目のようなものを発見する。
耕平「(ひらめく)!」
     切れ目に金具をひっかけてそのままひっぱると、木製の扉がぎぎ 
     ぎぎとひらいて、室内から熱気が溢れ出てくる。
耕平「(ホッとしつつ少し呆れて)鍵……っていうかあ、これ?」
     ぶつぶつ言いながら、サウナ室に入っていく耕平。
 
○同・サウナ室
     肌を焼く熱気を感じながら、耕平が室内を観察する。
     八畳間ほどの壁ぞいに、二段造りのひな壇がある。
     壁の温度計は摂氏100℃前後。
     その隣にかけられた時計は明らかに狂っていて、現在時刻がわか
     らない。
     条件反射のように、左腕にはめたままだった腕時計を覗きこもう  
     として――
耕平「熱っ!」
     サウナで熱せられた金属バンドが腕に密着し、その熱さに耕平が 
     思わず声をあげる。
     慌てて時計を外し、ひな壇の下の段に座って息をつく耕平。
耕平「ふう……」
     時計を置いて左手首をさすりながら、耕平がふと部屋の片隅に目
     を遣る。
     木枠で囲われた一角と、その横に大きな水桶が見える。
     木枠内にゴロゴロとした岩塊がいくつも積み上げられている。
耕平「?」
     岩塊と水桶の用途がわからず、耕平は首をかしげる。
           ――時間経過――
 
○同
     最前と同じ位置に座り続けている耕平。
     上気した頬が赤く染まり、全身は汗だく。
     濡れた髪の毛の先から汗がしたたり落ちている。
     ちらりと壁を見あげるが、狂った時計はもちろん入室時と同じ時
     刻を指したまま。
     したたる汗が目に入り、耕平がタオルで顔を拭う。
     拭き終えてタオルを顔から外したとき、視界いっぱいにこちらを
     覗きこむ主人の顔が大写しになっている。
耕平「うわっ!」
     びっくりして身をのけぞらせた耕平を見て、不満げにぷいと頬を
     ふくらませる主人。
主人「何よぉ! オバケでも見たみたいに。失礼しちゃう、ぷんぷん!」
     臍を曲げたように言いながら、主人が耕平の脇腹を軽くつねる。
耕平「痛っ! ちょ、何すんです!」
     抗議する耕平を意に介さず、彼の隣に腰かける主人。
     横にスライドして距離をとる耕平。
     そのぶんだけ近づいてくる主人。
     何度かそれを繰り返した挙句、耕平はとうとう壁際まで追いつめ
     られてしまう。
耕平「……」
     諦めたようにうなだれる耕平を見て、主人がなぜか勝ち誇ったよ
     うに微笑む。
主人「うふ、逃げなくたっていいじゃない」
耕平「いや、逃げます。(少しむっとして)何なんですか?」
主人「何なんですかって何がよ? お風呂に入りにきたに決まってるじゃな
  い。ほら、昔から言うでしょ?『風呂は道連れ、湯は情け』って」
耕平「言いません」
     主人から目をそらして不愛想に言う耕平。
主人「おカタいわね。あなた、お役人さん?」
耕平「え?」
主人「それって、お役人のカタさだわ」
耕平「まあ、そんなようなもんです」
主人「ふふ、やっぱり」
     得意げにそう言いながら、タオルに隠された耕平の下半身に手を
     のばしてくる主人。
耕平「う、うわっ!?」
     驚いて立ちあがる耕平。
主人「こっちもカタかったりして……って、あ、でも、ごめんなさいね? あたし、そっちのケはないの」
耕平「(ぼそりと)説得力ない……」
     おそるおそる座り直した耕平を、ニコニコして見つめる主人。
主人「……で、いかが? 時ノ輪浴泉名物のサウナ。うちのはね、フィンラ
  ンド式なのよぉ」
耕平「そんなことより、いいんですか、番台をほっといて」
主人「番台? やだ、死語よ、死語。フロントって呼んで」
耕平「そうなんだ?」
主人「そうなのよ。(ため息)ふう……あ~あ、これだから素人さんは。ひ
  ょっとして銭湯は初めてとか?」
耕平「スーパー銭湯とか健康ランドなら、たまに……。あ、でも、こういう
  とこは、う~ん、何年ぶりかな」
主人「健康ランド? あんなまがいものと一緒にしないでよ。ぷんぷん!
     本気でむくれる主人を見て、思わず頭をさげる耕平。
耕平「す、すいません」
主人「お役人にしては素直ね。ホントはあなた、表具屋さんじゃない?」
耕平「な、なんで表具屋?」
主人「何が?」
耕平「……」
     主人のペースにのせられるのをきらった耕平が、会話を元に引き
     戻そうとする。
耕平「だから、そのフロント? 大丈夫なんですか?」
主人「へーき、へーき。お客さん全然いないし。お天気のせいね。商売あが
  ったりだわ」
耕平「……」
主人「だ・か・ら、あたしも一休み~。素人のお米屋さんにサウナの味わい
  方をご指南したげようと思ってさ」
耕平「さっき、表具屋って……」
主人「え?」
耕平「いいです、何屋でも」
主人「そんなことより!」
     ぐいと身を乗りだす主人。
     壁際に押しつけられた格好で、身をよじる耕平。
主人「まだ試してないのね、あれ」
耕平「あれ、って?」
     耕平の問いかけを無視して、主人が言葉を続ける。
主人「サウナって何のためにあると思う?」
耕平「そ、それは……汗をかいて、身体に溜まった老廃物を……」
     言い終わる前に、主人の容赦ないダメ出し。
主人「ん~、50点。10点満点で」
耕平「え?」
     耕平の反応をまたもや無視する主人。
主人「それだけじゃ単なる蒸し風呂よ。本物のサウナとは呼べないわね。少
  なくとも時ノ輪浴泉のサウナは違う……!」
耕平「……?」
主人「人はなにゆえサウナを求めるのか? 人生には、どうしてサウナが必要なのか……?」
耕平「ひ……必要、なんだ?」
主人「必要なの……。それを、今から、あたしが、あなたに、教えて、あ・
  げ・る……」
     主人が耕平の鼻先に顔を近づける。
     呑みこまれたように、主人の顔を見つめる耕平。
耕平「……」
主人「熱気と湯気の中で、おのれの進むべき途を見定める……そのためにサ
  ウナはあるの。人は、そのためにこそサウナに入るのよ……。ええ、あ
  なただって、同じ……」
耕平「え?」
主人「あなたは迷ってる、悩んでる。はたして自分が、どの途を選ぶべきな
  のか、決められずにいる」
耕平「わ、私は別に――」
     反論しかけた耕平の鼻先を、いきなり舌でペロリと舐める主人。
耕平「(驚愕のあまり絶句)!?」
主人「(吟味するように舌なめずりしながら)うん、間違いない、これは
  悩みの味、迷いの汗の味だわ」
耕平「(なかば呆然としながら)な、舐めた……!?」
主人「そこは気にしない。舐める人だから、あたし。だから、ほら? ね? 
  鏡も洗い場も湯船の縁も、ピカピカだったでしょ?」
耕平「(またもや絶句)!!」
主人「……じゃあ、始めましょうか?」
     言い終えると主人がすっくと立ちあがり、その下半身からタオル
     がはらりと落ちる。
     我に返った耕平が大慌てでタオルを拾いあげる。
耕平「ちょ、こ、これ!」
     タオルには見向きもせず、差しだされた耕平の手をとる主人。
主人「立って。見せてあげるわ、あなたの途を」
耕平「(さっぱり訳が分からない)????」
主人「あれよ」
     主人が指さした先に、岩塊の入った木枠と水桶がある。
     立ち尽くす耕平に、主人が畳みかけるように言う。
主人「あなたは今から知ることになるのよ。この世にふたつとない、本物の
  スウェーデン式サウナを!」
耕平「え? フィンランド式って――」
     言いかけた耕平を引きずって、水桶の前に連れていく主人。
     そばに置いてあった手桶でなみなみと水をすくった主人が、木枠
     の中の岩塊にそれを一気に注ぎかける。
耕平「うわっ!」
     ジュワワーという凄まじい音とともに、岩塊から生じた真っ白い
     湯気が部屋いっぱいに拡がっていく。
     耕平の視界が完全に白く閉ざされる刹那、分厚い湯気の中から主
     人の声が響いてくる。
主人(off)「さあ、とくと味わいなさい、ノルウェー式サウナの真髄!」
耕平(off)「す、スウェーデンじゃ……?」
    言いかけた耕平の視界も意識も、何もかも白く溶けていく……。
     (ホワイト・アウト)
 
○選挙事務所(四十年後)・夜
     白い空間の奥から大勢の声が徐々に聴こえてくる。
大勢の声(off)「(F.I.)……ざーい! ばんざーい! ばんざーい!!」
耕平「!?」
    (以下、耕平の主観視点)
     万雷の拍手と万歳の連呼によって、意識を呼び覚まされる耕平。
     いつの間にか広い室内にいて、目の前では大勢の人々が喜びの声
     をあげている。
人々「湯川耕太郎くん、ばんざーい! 湯川耕平先生、ばんざーい!」
     人々の注目が自分に集まっていることに気づく耕平。
     自分の隣には初老の女性と三十代と思しき男性がおり、人々に向
     かって何度もお辞儀を繰りかえしている。
     部屋の壁にべたべたと何枚も貼られているのは、その青年の笑顔
     が大きく刷られた選挙ポスターである。
     自分たちの背後には、「必勝・湯川耕太郎君」と記された大きな
     白い布が掲げられている。
     近くにあった大きな鏡の中に、耕平は自分の姿を認める。
     そこに映っていたのは正確にいえば『自分』ではない。明らかに
     数十年の年齢を重ねた、初老の湯川耕平の姿!
    (以下、客観視点に)
耕平「……!」
     一瞬のうちにすべてを理解する耕平。
     数十年後の未来の世界に、自分がいるということを……。
     ここは衆議院議員候補・湯川“耕太郎”の選挙事務所。
     初老の女性は自分の妻であり、男性は自分のあとを継いで選挙に   
     出馬し、いま当選を勝ち取ったばかりの(この未来で生まれてき
     た)長男・耕太郎なのだ!
耕太郎「本当にありがとうございました! みなさまの厚きご支援を賜りま
   したお陰で、父・湯川耕平の名を汚さすことなく、選挙戦を勝ちぬく
   ことができました!」
     マイクを手に深々と頭をさげる耕太郎。
     女子事務員が運んできたダルマに耕太郎が筆で目を入れると同時
     に拍手が鳴り響き、喜びの声がひときわ大きくなる。
支援者A「耕平先生! 先生からも一言!」
     その声に賛同し、支持者たちが大きな拍手をする。
耕太郎「お父さん、お願いします」
     何かに操られたかのように笑顔で“息子”に応じる耕平。
     耕太郎からマイクを受けとると、クチから自動的に言葉がこぼれ
     出てくる。
耕平「みなさま、ありがとうございます。これからは私に代わって、この耕
  太郎がみなさまのために働かせていただきます。私が頂戴してきた以上
  のご指導・ご鞭撻を、今後は耕太郎のためにお願い申しあげます!」
     満座の拍手と歓声が最高潮に達したとき、耕平は自分のすぐ後ろ
     に誰かが立っていることに気づく。
耕平「!?」
     そこにいたのは黒づくめの男である。
     フードを目深にかぶっていて顔は見えない。
黒づくめの男「おめでとう、湯川先生。私からもお祝いがあるんだ。受け取
      ってくれるかい?」
     無機質な声に不気味なものを感じながら、それでも鷹揚に頷いて
     みせる耕平。
耕平「あ、ああ、もちろん」
黒づくめの男「あんた、ホントにすげえことをやってくれたよ。……ああ、
      とりかえしのつかないくらい、すげえことをな」
耕平「!?」
黒づくめの男「ふっ……あんたが再稼働を決めた、あの原発のせいで……俺の
      家族は、家族は……!」
     男の手の中で何かが光ったかと思うと、その次の瞬間、耕平は自
     分の腹部に猛烈な熱さと鈍い痛みを覚える。
     男が刃物を耕平の腹に突き刺している。
     咄嗟に抑えた手の隙間から、どす黒い血がどくどく流れてくる。
     喧騒が瞬時に消え去る。
     沈黙の中で男の声だけが耕平の耳に響く。
黒づくめの男「地獄で、あやまれ!」
耕平「!!」
     男の体が離れると同時に、耕平の全身から力が抜けていく。
     薄れゆく意識の中で、ぼんやりと考える耕平。
耕平「(これが……私の……選んだ途……なのか?)」
     耕平の意識が真っ白になる――
   (ホワイト・アウト)
 
○時ノ輪浴泉・サウナ室
     白く濃い湯気が少しずつ晴れていく。
     ゆっくりと我に返った耕平を、主人の明るい声が出迎える。
主人「おかえりなさい、万事屋さん……」
耕平「!!!!……!?」
     顔面蒼白の耕平。
     意識はまだ朦朧としているが、いま見てきた光景、体験してきた
     出来事ははっきりと憶えている。
主人「見てきたみたいね、あなたの選んだ、ひとつめの途(みち)を……」
耕平「ひとつめ……?」
主人「ん~(少し考えて)……まあ、そりゃあそうよねぇ」
     ぶつぶつと独り言のように語る主人。
主人「ちゃ~んとした答えを出すためには、ふたつめも見にいかなきゃダ
  メ、か。……もっともな話だわ。うん、おっけー。見せたげる、ふたつ
  めの途も!」
     言い終わるやいなや、主人が再び岩塊に水を注ぎかける。
主人「さ、もう一度! ジンバブエ式!」
耕平 「じ、ジンバ……!?」
     立ちのぼる湯気と熱気の中で、耕平の意識はまたもや白くあやふ
     やに溶けていく――
   (ホワイト・アウト)
 
○耕平の居室(五十年後)
     白い空間の奥から猫の鳴き声が聴こえてくる。
猫の声(off)「……みゃあ」
     目をあける耕平。
     六畳ほどの和室にのべられた布団に寝ているのがわかる。
     さっき見た光景よりもさらに歳を重ねており、完全に老人の姿。
耕平「……ああ、お前か」
     今度もまた、自然に言葉がクチをついて出てくる。
     しわがれた声で言う耕平の枕元では、薄汚れた猫が鳴いている。
猫「みゃあ」
     耕平はまたも瞬時に理解する。
     ここが自分の住む安アパートの一室であること。
     年老いた自分が病で臥せっていること。
     この子が、自分の可愛がっている野良猫であること――
耕平「ようしよし……」
     大儀そうに上体を起こして、猫を抱きかかえる耕平。
     満足そうに喉を鳴らしながら、猫が耕平の腕の中で丸くなる。
     耕平がそれを満足げに見つめていると、次の間に通じた襖がひら
     かれる。
     中に入ってきたのは、長年連れ添った老妻(らしき人)である。
妻「よろしいんですか、あなた? 起きたりして」
耕平「今日は気分がいいんだ。それに、ほら? せっかく、こいつも来てく
  れたことだしね……」
妻「お気に入りですものね、その野良ちゃん。……どれ、煮干しでもあげま
 しょうか」
     粗末な棚の中から煮干しをとりだした妻が、それを耕平に渡す。
     煮干しを猫にやって微笑む耕平。
     棚の他に目だった調度品はなく、質素な暮らしが一目でわかる。
     煮干しに夢中の猫を傍らにおろし、耕平が妻に顔を向ける。
耕平「お前には、本当に――」
     喋りかけた耕平が突然、何かにむせたように激しくせき込む。
耕平「ゲホ、ゲホ、ゲホ!!」
     手早く吸いさしをとりあげた妻が、耕平に水をのませながら彼の
     背中を優しくさすってやる。一連の動作はすっかり手慣れたもの
     のように見える。
     やがて落ち着いた耕平が、妻に改めて声をかける。
耕平「すまなかったね。私に……甲斐性がなかったせいで、お前にはずっと
  苦労をかけっぱなしだった……」
妻「何を言うんです」
     かぶりを振って耕平に微笑みかける妻。
妻「知っていますもの。あなたが誰より優しく、誰より正直に生きてきたこ
 と。誰かをだましたり、傷つけたりしたことなど、ただの一度も……」
     妻が耕平の右手の甲に、そっと自分の手を重ねる。
妻「世界一正直で、世界一誠実な人の妻でいられたことが、私にとって、一番の自慢ですよ」
耕平「……」
妻「幸せでした、私は……」
耕平「……ありがとう」
     重ねられた妻の手に、自分の左手を載せる耕平。
耕平「(少し自虐的に)買いかぶりじゃなければいいんだが」
妻「私だけじゃありませんよ。あなたの優しさを知っているのは」
     煮干しを食べ終えた猫が、耕平にすりすりと身を寄せている。
妻「ほら、ね?」
耕平「……」
     満足げな笑みを浮かべながら、耕平が猫の背中を撫でる。
猫「にゃあ、にゃあ」
     そのとき――
     ガシャンという音とともに、投石で窓ガラスが割れる。
耕平「……またかい」
     さして驚くこともなく、割れた窓の方に目を遣る耕平。
     見れば、他の窓ガラスも修繕の跡だらけである。
妻「(諦めたように)どれだけお話をしてさしあげても、どうしてもわかっ
 てもらえない人って、いるんですねえ。残念なことですけど……」
猫「みゃあ」
怯えたように鳴く猫を労わるように、耕平が穏やかな声で語りかける。
耕平「いいんだよ、お前は心配しなくて……」
     妻に見守られながら、猫の背中を撫で続ける耕平。
     カメラがゆっくりとズームアウトしていく。
     和室から台所、玄関口……そして、さらにその外側へ――
 
○アパートの部屋の前(昼)
     あちこち剥がれ落ちた合板製の玄関ドア。
     表札代わりに貼られた紙片には、薄れた文字で「湯川」とある。
     ドアとその周辺の至るところに、黒や赤のマジックで乱暴に文字
     が書かれた張り紙がベタ貼りされている。
   『野良猫にエサをやるな!』
   『ペットの飼育は禁止です!』
   『猫ジジイ! 猫ババア!』
   『ナマポが猫缶買うな!』
   『猫と死ね! すぐ死ね! いま死ね!!』――etc......
     さらにズームバックしていくと、大小さまざまな数十匹の野良猫
     が玄関先に置かれた餌皿に群がっている様子が映しだされる。
猫たちの声「みゃあみゃあ! ふぎゃあ、ふぎゃあっ!!」
     騒々しく鳴き声をあげながら、我先にと争うように餌をむさぼる
     野良猫たち。
     その騒々しい鳴き声が徐々に小さくなっていくのにあわせて、画
     面が白く溶けていく――
   (ホワイト・アウト)
 
○真っ白な湯気の中
     湯気に遮られて何も見えない空間に、主人の囁き声が響く。
主人(off)「見てきた……?」
耕平(off)「……そうですか、今の、これが」
主人(off)「ええ、あなたの選んだ、ふたつめの途よ」
耕平(off)「ふたつの途……ふたつの、未来……」
主人(off)「残念だけど、本日はこれにておひらき。どうだった? 時ノ輪
     浴泉名物、トリニダードトバコ式サウナは」
耕平(off)「え? ……ふふ、どこ式だったのか、最後まで……結局……(わ
     からなかった)……………………」
     耕平のつぶやきが、白い湯気に吸い込まれるように消えていく。
 
○時ノ輪浴泉・フロント(午後)
     脱衣所の扉がひらかれ、中から耕平が出てくる。
     湯上がりのせいか、それとも何か他にも理由があるのか、清々し
     く、さっぱりした顔をしている。
     フロントのカウンターへ視線を送る耕平。
     カウンターの中に、主人がぽつねんと立っている。
     耕平が主人に声をかける。
耕平「ありがとうございました、いろいろと」
主人「は、はあ……?」
     深々と頭をさげた耕平に、訝しげな表情を向ける主人。
     主人の所作にも口調にも「なよなよとした」様子は微塵もない。   
     ごく普通の中年男のそれである。姿かたちは同じだが、その佇ま
     いはまるで別人のよう。
     だが耕平は、その差異にまったく気づいていない様子)
耕平「それじゃあ、またいつか。ええ、きっとまた来ます!」
     晴れ晴れとした顔でそう言ってから、フロントを立ち去る耕平。
主人「??……毎度、ありがとうございました……?」
     首を傾げて耕平を見送ってから、小声でひとりごちる主人。
主人「湯あたり、かねえ?」
 
○同・引き戸の外(午後)
     時ノ輪浴泉の引き戸から耕平が姿を現す。
     雨は相変わらず土砂降りで、まだまだ止む素振りを見せない。
     顔を空に向け、滝のように降り注ぐ雨粒を顔中で受け止めなが
     ら、勢いよく髪をかきあげる耕平。
     雨宿りの意味がなかったが、耕平はまったく意に介していない。
耕平「うん!」
     吹っ切れたような笑顔で頷いた耕平が、そのまま勢いよく駆けだ
     していく。
     耕平は走る。
     どこまでも走る。
     土砂降りの雨の中を、まっすぐに、どこまでも、いつまでも――
 
 
                  〈了〉

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