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「写真」について考えてみる 002

「写真」の鑑賞力

2  ひとかたまりの写真


 当然のことですが、写真展や写真集の鑑賞は一挙に「量」を見ることになります。写真作品を一枚一枚見ながら、さらに「群れ」ないしは「かたまり」として全体を見ていくという視点に立つことになります。ただし、私も時おり審査を担当する地方の写真愛好家の皆さんの「県展」などは、もちろん「単写真」一枚づつ、あるいは「組写真」それぞれの個人作品ですからそれとは違います。いわゆる「個展」としての写真展示ということです。あるいは、写真美術館などの企画展でもはっきりテーマを掲げて数々の名作を展示する場合もありますから、「かたまり」として鑑賞することができます。

 たくさんの写真を鑑賞すると一時的にそれぞれ一枚づつの写真が頭の中で交錯します。さらにある種の関係づけという自然な作用も生まれます。これらは面倒なことのように思われるかもしれませんが、案外いい経験かもしれません。写真はとりあえず視覚的な産物であることを自覚できるからです。そして次々と脳裏に残っていく「イメージ」をつなぎながら、そこに表現された世界と作者の関わりのようなものを探そうとするはずです。いわば「鑑賞」の第二歩目。

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 写真展という「場」ないしは「空間」ならば、実際に再び展示の最初から歩いてみようという思いも出てきます。そして、先ほどは通読しただけの「キャプション」なども丁寧に読み返したりします。また作者のここには展示されていない、それ以前の作品などについても興味が出てくることがあります。「知りたい」と思えてくるかもしれません。「写真美術館」の常設、企画展などは必ずといってよいほど「解説文」などが記されていますので、ここでも同じような興味がフーッと湧いてくるかもしれません。しかし、写真展では写真集のように何度もページを開くというわけにはいきませんから、適当なところで会場を退出しなければなりません。そして、「鑑賞」は写真展会場を後にしてからも続くということを言い聞かせる必要があるでしょう。

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 ある種の「情報」として写真をそこで何かしらのファイルに入れ終わらせてしまうのも悪くありませんが、答えの出ない課題のように時折考え、できれば再びその写真群を何らかの方法(写真集を購入するなど)で「開く」ということができると、すでに「鑑賞」の段階はさらに二つぐらい進んでいるのではないでしょうか。

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古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。